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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

金沢空襲 72年前の真実

 女房と出会い結婚したころのことです。15年ほど後に日本で韓流ブームが到来するなど想像もできず、25年以上も先には従軍慰安婦を象徴するとされる少女像なるものが日韓の仲を裂くことになるなんて、日本人も韓国人も露ほども思わなかった1990年前後の数年間、韓国で日本語講師をしていたぼくは、そのころソウルを流れるハンガン(漢江)の中州、ヨイド(汝矣島)にあった総合安保展示場というところへ、たびたび出かけていました。そこは近代的なビルやマンションに囲まれた広大な公園で、朝鮮戦争で使われた軍用機を手でさわれるほどの近さで見ることができました。ノースアメリカンF−86Fセイバー、ノースアメリカンF−51Dムスタング、ボートF4U−4コルセア、ロッキードF−80Cシュヨイド C-124&B-29ーティングスター、グラマンF9F−6クーガー、ダグラスB−26Cインベーダー、ダグラスC−124CグローブマスターUなどが屋外に並んでいたのです。
 展示機のなかに、ボーイングB−29スーパーフォートレスもありました。日本では国中を焼け野原にされ原爆2発を投下された「親の仇」みたいなもんですが、韓国に行けば朝鮮戦争の「英雄」です。それまで写真を見て大きな爆撃機だと思っていたB−29は、巨大な輸送機C−124の横に並ぶと、胴体が細く背の低いその機体は目立たず、弱々しく地に這いつくばっているようにも見えて、こんなものに多くの日本人が殺されたのかと、しかし、戦争を知らないぼくは怒りや憎しみではない、がっかりしたものを感じて、虚しい気がしたのを憶えています。


日本の都市への爆撃
 先の戦争で米軍機による日本の都市への爆撃は、真珠湾から5ヶ月後のドウリトルによるB−25の奇襲を除けば、1944年11月24日の100機を超える数のB−29による東京への大規模な空襲が最初で、その後は終戦の日まで全国の都市に対して行われました。(Bー29の初空襲は1944年6月の八幡製鉄所への爆撃です。)すでに日本は戦争を続ける力が失われていた状況での民家が密集した都市への無差別爆撃は戦略爆撃などではない、一日でも早く日本を無条件降伏させ米軍兵士の犠牲をできるだけ減らすためというもっともらしい理由を後から付けた、一般市民の大量殺戮でした。広島長崎への核攻撃がなかったとしても、これだけで十分に弁解の余地がない犯罪行為です。
 この日本全土に対する非人道的無差別爆撃を京都と奈良は受けませんでした。B−29による爆撃を指揮したのは、米陸軍航空軍(U.S.Army Air Force)の司令官ヘンリー・アーノルドが直接任命したという第20空軍第21爆撃集団の司令官カーチス・ルメイでしたが、米軍内部に文化財が多い一帯を爆撃しないように爆撃目標の作成に係わった美術家がいたからだといわれていて、ルメイもそうやって決められた爆撃目標を無視して爆撃させるようなことはしなかったんでしょう。

B−29の金沢爆撃
 金沢もまたB−29による無差別爆撃を免れた都市でした。でも、どうしてだったんでしょう。金沢には陸軍歩兵第9師団の司令部が置かれていましたが、部隊は沖縄あるいは台湾にいて実質裳抜けの空だったということは米軍も知っていたはずで、それが理由で金沢が爆撃されなかったというのなら、福井と富山は爆撃されているんだから、軍隊のいない金沢はよほど価値のない場所に思われていたわけで、日本中を焼け野原にして戦争に勝とうと考えた米軍も、少しでも爆弾と燃料を節約したかったのか、あるいは搭乗員の命をむやみに危険に曝して平気だったというルメイも、そんなところを爆撃する余裕はないと思ったのか、・・・と好き勝手に言ってみるのは、金沢が空襲されなかった理由はよくわからないとされているからです。

気象条件
 そういうことなら、ここでいつもの自由な想像をして・・・というより、これはむしろ空想かもしれません。金沢が空襲されなかった理由について、ぼくは、気象条件だったのではないかという気がします。福井は昭和20年7月19日に、富山は同年8月1日にB−29の空襲を受けています。この感じだと、金沢もこのあたりの半月間のどこかで爆撃目標にされていたのかもしれません。ところが、その日は雲が多く低空からの爆撃でも地上が全く見えない、それでしかたなく引き返したかというと、そんなことするわけがなく、次の目標に向かったはずです。ひょっとしたら福井と富山のどちらかが、たぶん富山が、第二目標だったんじゃないかなと思います。

歴史的文化的価値
 雲があって爆撃できなかったなんて話は聞いたことがない、金沢の持つ歴史的文化的価値が理由だよ、と言う人がいたら、それは・・・どうでしょうか。金沢城に天守閣はなかったし、藩主が暮らした二の丸御殿も明治時代に、そこを占拠していた陸軍部隊の失火で焼失しています。歴史を偲ばせる古い街並みなんて、戦前の日本ならどこにでもあったし、伝統工芸は基本的に無形の文化財です。
 そもそも、今でも日本と言えばフジヤマとゲイシャガールしか思い浮かべないアメリカ人が72年も昔に、金沢は加賀百万石の城下町だとわかっていたはずはないし、先住民を駆逐して国を建てた「正義」が、昔からの街並みと伝統工芸の古都を破壊してはならないなどと考えるわけがありません。それに、よく考えてみてください。今の日本においてでさえ、新幹線が通って漸く、じゃ行ってみようかな、となったという程度にしか認知(意識)されていないのが金沢の歴史と文化です。金沢が空襲されなかった理由を歴史的文化的価値があったからだとするのは、もっとものことのようにも見えて、しかしそれは大きな誤解で、郷土愛が生んだ小さな思いあがりというものでしょう。


 アメリカが金沢を爆撃しなかったのは、なんらかの理由で爆撃目標のリストに載せていなかったからか、それとも偶然の事情で爆撃できなかったのか、あるいはただなんとなく爆撃しなかったというだけのことだったのか、なんであれ金沢は空襲を受けませんでした。そしてまだこどもだったぼくの両親は命を落とすことはなく、今日ぼくは新婚ほやほやだったころ韓国で見たB−29を思い出しながら窓の外満開の桜を眺めています。(メキラ・シンエモン 20017年4月12日)



おまけ
アカデミー1/72 KB-29 飛行機のプラ模型にはみさかいなく手を出すぼくのことだから、やっぱりB−29も作っているのかと言えば、いくらぼくでもそんなもの作るはずないよ、と言いたいところですが、それが・・・やっぱり作っています(写真を入れたから初めからバレていますね)。25年前にソウルで買った、当時発売になったばかりのアカデミー(韓国の主力プラ模型メーカー)の1/72です。キットのできがとても良かったので触手が動きました。キットはコンバーチブルで、戦後の空中給油機型KB−29として組み立てました。
 やはり爆撃機として作ることができなかったんです。それも塗装にかかる前にそれ以上作るのが嫌になってしまい、ジュラルミンの地肌のままで無塗装だった機体の場合、いつもなら機体各部の外板の材質の違いに拘って、微妙に色調を変え光沢に変化をつけて表現しようとするところを、そんな手間をかける気にはならず、エアブラシで全体にシルバーを一気に噴き付けてしまいました。(メキラ・シンエモン 20017年4月12日)

模型制作と写真:メキラ・シンエモン




追記

アクタス2018年8月号の記事

 7月17日の北國新聞の朝刊の第一面は「金沢空襲の偵察写真発見」で、その写真、金沢中心部を撮った航空写真が載っていました。写真を撮ったのはアメリカ陸軍航空軍第20空軍第21爆撃集団第3写真偵察戦隊所属のボーイングF−13で、1000ミリの望遠レンズで高度8200メートルから、昭和20年6月21日に撮影したとなっていました。これはこれは・・・、と思って記事を読んでいくと金沢空襲の計画があったと書いてあり、7月20日発売の月刊北國アクタスの8月号に詳細を掲載するとありました。F−13はB−29の写真偵察機型。北國アクタスというのは北國新聞社が出している石川・富山のことを話題にした総合月刊誌です。)
 それから一週間ほどして、定期健診に行った病院の待合室にアクタスがあったので手にとってみると、表紙のど真ん中に大きな字で『金沢ヲ空襲セヨ 米国の空軍基地で戦闘計画書発見 「文化都市ゆえ回避」は迷信だった」』と書いてありました。
 そこまで大仰に書くほどのことかな、あの戦争の記憶がある80歳以上のお年寄りならいざ知らず、そんな昔のこんな話に関心のある人は少ないだろうと思いながら記事を読んでみると、以下のような内容でした。

金沢爆撃計画
 まず、写真の発見者は山口県の人で、ワシントンの米国立公文書館やアラバマ州マクスウェル米空軍基地などに通い、太平洋戦争での米軍機による日本本土空襲に関する資料を収集し分析している、それに関する著書もある研究者です。件の写真は米国立公文書館で見つけたそうです。そして、この写真について、金沢空襲のための偵察写真だったと書いてありました。また、この写真が撮られた同じ日に金沢のほかにも富山や福井など7都市が撮影されていて、金沢以外の都市はすべて航空攻撃されていると書いていました。
 さらに1945年7月20日付だという、金沢爆撃に関する戦闘計画書も紹介されていました。それによると、マリアナ諸島にある基地から出撃した120機程度のB−29が静岡県の御前崎から本土上空に侵入し日本海側に向け北上、黒部から一旦富山湾に出ると能登半島の穴水から志賀にかけての上空で左旋回してまっすぐ南下、金沢市内中心部を時速310キロで通過しながら、高度4500メートルからレーダー照準により70分以内で爆撃し、帰路は侵入した御前崎から離脱するという作戦です。

金沢に空襲がなかった理由
 戦闘計画はこうでしたが、金沢爆撃の具体的予定はというと、8月6日の時点では金沢は今後の爆撃計画の目標リストに載った12都市の筆頭に挙げられ、ところが11日の命令書の目標リストには金沢はなかったそうです。詳細な実施計画までありながら、わずか数日のうちに金沢は目標から外されていたわけです。アクタスの記事はその理由にも触れていますが、作戦の変更、レーダーで目標を捉え難い金沢の地形などが考えられると書いていました。
 作戦の変更は爆撃目標を交通インフラ優先に変えたというものでむしろ戦略の変更と言うべきですが、でもそれは米軍の本土上陸予定地点に日本軍の兵力を集中させないことが目的だったというから、それなら元々計画にあったはずで、いきなりの作戦変更ではなかったろうと思います。また、レーダーで捉えにくい地形が理由なら初めから目標にはしないでしょう。ほかに、戦後の日本統治で北陸における拠点として金沢を残したなどという、詳細な爆撃計画の存在からみてちょっとありえないようなことまで書いてありました。いずれも目標リストから金沢が突然消えた理由としては弱いものばかりだという気がします。
 ぼくが本文で考えた雲の低い気象条件については、レーダー照準だから爆撃に天候は影響しないとしながらも、レーダーの性能は低く悪天候下では攻撃が難しいとも書いてあって、その年の金沢の7月下旬から8月中旬の天気は雨と曇りが多く、悪天候が理由で目標を変更した例がほかの目標では実際にあった、と曖昧なことが書いてありました。いずれにしても、こういうことだから、米側の資料を当たっても金沢が爆撃されなかったわけは、結局、皆目わからないということです。

 また、アクタスの記事には本土空襲は日本の継戦能力を消滅させるためだったというようなことが書いてありましたが、さあそれは・・・、表向きはともかく実際はどうだったんでしょう。B−29がいくら高高度を飛行する爆撃機だったといってもあまりに貧弱な迎撃体勢しか取れず、やすやすと爆弾を落とし悠々と帰って行くことを許していた日本に戦争を続ける力などもうなかったことは明白で、アメリカ軍がそんなことを冗談にも考えていたはずはありません。一般市民の虐殺を正当化する、あるいはごまかすための後付けの理由だったのに決まっています。
 日本本土空襲の本当の理由は、去年NHKBS1で放送された『BS1スペシャル「日本はなぜ焼き尽くされたか 米空軍幹部が語った”真相”」』という番組で明らかにされていて、アーノルドとルメイの肉声がはっきり、空軍の陸軍からの独立を認めさせるために陸海軍や大統領に空軍の力を見せつけるのが目的だった、と言っていました。第二次大戦を戦った主要国で空軍が陸軍の所属だったのは、海軍が強力な航空兵力を持つ日本とアメリカだけでした。アメリカ空軍(U.S.Air Force)は終戦から2年後の1947年9月に陸軍から分離独立しています。つまり、アメリカが空軍を独立の軍種として持ったのは戦後のことだったんです。ちなみに日本が航空自衛隊という空軍を持ったのは保安隊が自衛隊となった1954年7月でした。


 アクタスがはっきり断言していたのは、金沢が文化都市であったがゆえに空襲を免れたということはあり得ない、ということでした。これには本文で書いたとおりぼくも同感です。
 金沢はアメリカが日本に勝つためにはどうしても破壊しておかなければならない都市ではありませんでした。それは、しかし、米軍の空襲を受けた日本中のほかの中小都市もみんな同じだったでしょう。(メキラ・シンエモン 2018年7月24日 追記)




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