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ラジオ爺さん ―老人とCOVID-19−
これは「通りがかりの者です」にはあるいはあまり相応しくないテーマかもしれません。いや、まったく外れているでしょう。若い生命(いのち)は死を身近なものと意識しませんが老いた生命は死をすぐそこに見ています。若い生命はなにごとも恐れず躍動的で自信に溢れていますが老いた生命は終焉の訪れを知り最後の時を少しでも先へ延ばそうとします。高齢者の極めて明瞭にして非現実的ながら時にはありがたい定義は満65歳以上です。そしてぼくは新参者の定義該当者です。
ラジオ爺さん
このところ暑い日が続いています。金沢でも連日熱中症警戒アラートが発令されていますが、外出は避けろと言われなくても休みの日なら外に出る気にはなりません。それでもウォーキングには出かけます。休みの日、ぼくは夏でも冬でも夜明けとともに家を出て裏の山(野田山:標高175メートル)に登っています。(山頂近くにある家の墓まで行きます。)往復5キロを平地と変わらぬ50分で歩きます。それが近ごろは出かけるのがもう太陽が高く昇って気温も上がってからになっています。この暑さになぜ。早朝の気温がわりと低い時間帯はラジオ爺さんに出くわすことが多くなったからです。ラジオ爺さんとはなにかというと、携帯ラジオを鳴らして歩いている爺さんのことで、婆さんもいますが、ぼくはまとめてラジオ爺さんと名付けています。
ラジオ爺さんは何人もいてたいていは大音量で、遠慮なくあたりの空気を引き裂いています。なかにはいい年をして騒々しい音楽を流している爺さんも・・・。ぼくはこのラジオ爺さんが大嫌いです。(本当はラジオジジイと呼びたい。)緑に囲まれた早朝の遊歩道、小鳥のさえずりとニイニイゼミの乾いた鳴き声だけが聞こえてくる清々しさにラジオの音など割り込んできてはならない。ラジオは熊除けのためなのか。しかし熊はよくわかっているから人が歩く遊歩道には出てきません。遊歩道を外れて滅多に人の行かない脇道へ入らなければ大丈夫。熊除けなら鈴かカウベルがいい。騒音にはなりません。ぼくもカウベルを付けていた時期があります。ラジオだなんてとんでもない。ラジオ爺さんは早朝の清々しさが判らないのか、小鳥のさえずりに心癒されることはないのか、いや、そもそもそんなことに心が喜ぶような感性は持ちあわせていない精神性の低い人種に違いなく、ただ歩くだけなんて時間の無駄あるいは退屈だからラジオでも聞きながら時間を有効に使って・・・という魂胆なのでしょう、きっと。そういう顔をしています。(そこまで言うのは・・・ちょっと言い過ぎ。)
ラジオ爺さんは運動のために歩いているのに決まっていますが平地とたいして変わらぬつづら折りを登って来るのだし、のんびりした速度では運動にはならないからそれはただの散歩でしょう。(ぼくはつづら折りが物足りないので直登(ちょくとう)です。すなわちバイパス的につづら折りを繋いで造ってある斜面をそのままあがる階段状の道あるいは斜面をそのまま登ります。)ラジオ爺さんは熊が怖いのなら町中を散歩すればいいのに・・・。でもそれだと間違いなく認知症の彷徨老人に見られるか・・・。(またちょっと言い過ぎ。なにもそこまで言わなくても・・・。)
というわけで、ぼくは早朝の遊歩道でラジオの音など聞きたくないから時間をずらしているんです。暑いし清々しさはありません。それでもラジオ爺さんに出くわすよりはいい。ところで、早朝歩いていて出会うのはラジオ爺さんばかりではありません。静かに歩いている常識的で上品なお年寄りもたくさんいます。みんな早くに目がさめて暇だから歩いているのではありません。長生きしたいが寝たきりにはなりたくないからです。要介護になって周囲に迷惑をかけるのも嫌だからです。だから足腰を鍛えるために歩いているんです。そして早朝の遊歩道に若者の姿はありません。それはそうでしょう。若い時は朝早く目はさめないし夜更かしもするから早朝は貴重な睡眠の時間。目ざまし時計に起こされて学校や会社に遅刻しないために5分以内に家を飛び出します。それは領空侵犯の中国軍機を迎撃する航空自衛隊のF−15Jのスクランブル発進。若者は健康を犠牲にして人生を謳歌し老人は健康最優先で残りの人生を引き延ばそうとします。
コロナワクチン
SARS-CoV-2と名付けられた新型のコロナウイルスに感染して発症するCOVID-19と呼ばれている疫病は、その存在が世界中に知られた昨年の1月、これはちょっと拙いことになりそうだと感染症の専門医が警鐘を鳴らしたときにはすでに手遅れだったのか、あれから一年半以上が経過しても一向に収束の兆しが見えません。SARS-CoV-2は絶え間なく変異し続けて、それはもう進化と呼んでもいいんじゃないのかと思うほどで、感染状況はますます深刻化しています。全世界で感染者が2億人を超えたといいます。
日本ではオリンピックの開催を強行して、それがオリンピックだからみんなで感染防止に一層努力しよう・・・ということにはならなくて、オリンピックをするのになんで自分らだけ自粛せにゃならん・・・という人情論へ傾いてしまいました。選手や関係者に感染者が相次いで出て、しかもルール違反者が多いからその言い分への反論は難しい。でもそんな言い分はお門違い、そんな理屈を通しているうちは絶対にこの疫病は収まらないでしょう。ソフトボールからはじまったメダルラッシュで国中が興奮したオリンピックが終わったあとの日本になにが残るのか、あるいはなにがやって来るのか。
ワクチンが切り札、ワクチンこそが状況打開の唯一の望みのように言っていますが、接種が一番進んでいる、何事につけ常に自分本位のイスラエルでは感染者が再び急増して慌てて3回目の接種を始めているそうだし、フランスでは接種が思うように進まないらしく接種を義務化しようとして暴動が起きたといい、アメリカも7月4日の独立記念日までに全国民に接種を終わらせると意気込んでいたのが達成できず足踏み状態に困っているみたいです。お人好しの我が日本はワクチン接種に出遅れて、それでも頑張って加速させた結果だいぶ追いついてきたかと思ったら、ここへ来て接種率が伸びていません。供給不足に陥っているからですが、それより問題は若年層のあいだで接種への理解が得られていないことにあるようです。高齢者は貪欲に我先にとワクチン接種を受けたのに若い世代は接種に消極的だというのです。不妊症になるとか遺伝情報が書き換えられるとかSNSの呆れた与太情報を真に受ける若者はさすがに少ないようですが、副反応への不安と必要性への疑問が理由だといいます。これはまともな理由だから考えを変えさせるのはそう簡単ではなさそうです。若者は年寄りの言うことを聞かない。いつの時代もそうです。ぼくもそうでした。
年寄りの持つ最新の知識や情報は若者よりずっと少ない。しかし年寄りには若者にはない経験があります。それは生き抜いてきた、いや、生き残っている生命の持つ直感力、考えている間のない時の、結果として正しかった判断や行動の記憶の蓄積です。そして老人は若者よりしたたかです。定義上の高齢者であるぼくもワクチンを接種しました。
ワクチン接種証明というものが欧米では導入されつつあります。もう制度と言ってもいい。これはCOVID-19
のワクチンを接種していないと仕事に就けないしご飯が食べられないことになるということです。つまりワクチンを接種していないと社会から締め出されてしまい生きていけなくなる。日本は海外渡航者に出す以外は考えておらず消極的ですがいずれ追随せざるを得なくなるような気がします。これがSARS-CoV-2の本当の怖さかもしれません。病気を引き起こすだけでなく人々の絆まで断ちきり社会を崩壊させる。
そこで、ああこれは旧約聖書の出エジプト記だ、とふと思いました。妄想です。神は十の災いの最後にこう命じました。家の中で子羊を焼いて食べその子羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗れ、と。この子羊の血を目印に神はその家の人と家畜を殺さずに通り過ぎました。(この出来事がキリスト教の復活祭の起源です。)すなわちCOVID-19は神がエジプトに下した最後の災いで新型コロナワクチンはモーセたちを災禍から逃れさせた子羊の血です。子羊の血は家の入口の二本の柱と鴨居の三カ所に塗りました。つまり3回塗ったのです。それでイスラエルは3回目の接種を決めた・・・。いや、これは妄想以下ですね。でも、考えてみるとCOVID-19のワクチン接種がなぜ2回なのか、1回では不十分だからということ以外ぼくらはその理由をよく知りません。
突然現れ全人類を苦しめているSARS-CoV-2というウイルス、その生物と無生物の間のようなRNAだけの存在になにかメッセージがあるのか、メッセージなどはなにもないただの自然現象なのか、どう考えるかは自由です。
金沢市が送ってきたワクチンの接種券を入れた封筒にはアマビエが描いてありました。お化けに助けてもらおうというんでしょうか、冗談なのか本気なのか・・・。(2021年8月5日 メキラ・シンエモン)
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