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西田幾多郎「善の研究」

「善の研究」第三編 善 ―善は宇宙の根本原理そして愛―

 西田幾多郎の「善の研究」について2月中旬からの一か月で5回に渡って書いたあと、前回はそれとはまったく関係がない室生犀星のあんずの詩を読みました。あんずがちょうど満開で、翌日は犀星さんの命日だったのでタイミングがよく、ちょっと休憩、といった気分でした。
 今回は再び「善の研究」に戻って、第三編「善」について書いてみようと思うのですが、今の日本人、いや世界中の人々に向けてのメッセージがここにあるような気がします。今地球上で起きていることに・・・。


主題は人間の問題
 幾多郎さんは序の中で、

第三編は前編の考を基礎として善を論じた積もりであるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支えないと思う。・・・この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占めるにも拘わらず、人間の問題が中心であり、終結であると考えた故である。

と書いています。つまりこの本の主題は哲学を論ずることよりむしろ"人間の問題"すなわち"人はどう生きるべきか"ということを考えることだというのです。そういうことなら第二編は第三編を書くため(ぼくらから見れば読むため)の準備だったし、第四編は後に残る余韻あるいはこの先への予感のようなものなのかもしれず、第一編は哲学書としての面目になっていると言ってもよいような気がします。
 また第三編は独立した倫理学と見てもよいと言っていて、第二編の単なる続きではないようですが、第二編の考察を基礎としているというのだから、やはり第二編が解った上でないと第三編を読むのはちょっとつらいようです。

 第三編「善」は以下の章から成っています。第一章「行為上」第二章「行為下」第三章「意志の自由」第四章「価値的研究」第五章「倫理学の諸説その一」第六章「倫理学の諸説その二」第七章「倫理学の諸説その三」第八章「倫理学の諸説その四」第九章「善(活動式)」第十章「人格的善」第十一章「善行為の動機(善の形式)」第十二章「善行為の目的(善の内容)」第十三章「完全なる善行」です。
 第一章から第三章までは統覚(思惟、想像、意志の統一作用)についての考察で、第四章「価値的研究」では何によって存在するのか(原因)ではなく何のために存在するのか(目的)でものの価値は決まると言い、第五章「倫理学の諸説その一」から第八章「倫理学の諸説その四」までは古今東西の哲学者による倫理(善)に関する様々な考えの解説とそれについての批評です。ここまでは離陸する航空機がランウェイ(runway)に入るためのタキシング(taxiing)のような感じです。
 こうして第九章からいよいよ本題に入ります。"善とは人格を作ることである"として、まず善についての一般論(第九章「善(活動式)」)からはじめて順々に段階を上げています。個人における人格の実現(第十章「人格的善」)、善行為における動機と結果(第十一章「善行為の動機」)、個人的善と社会的善(第十二章「善行為の目的」)と進み、真の自己を知る(第十三章「完全なる善行」)に到ります。
 見るさへ恐ろしい難しそうな表題がずらりと並んでいて、ムリムリ、これはとうてい解らない、と悲壮な思いになりそうです。でもここで怖気づいてはいかにも残念です。とにかく読んでいくしかありません。第二編をくんずねんずして読んできて、肝心の第三編で白旗を揚げてしまってはつまらん話ですから。(「くんずねんず」は金沢の方言でムチャクチャ苦労すること。)

主客合一
 最終章第十三章は、

善とは一言にていえば人格の実現である。

という書き出しではじまりますが、最後の一文には、

・・・真の善とは・・・真の自己を知るというにつきている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただ人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。・・・真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。そしてこの力を得るのは我々のこの偽我を殺しつくして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである。この如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。

と書いています。
 これはなにを言っているのか。真の自己は宇宙の本体だということを知り神とひとつになることが善である、その方法は主客同一、それには俗っぽい価値観は捨てよ、と言っているようです。また「神」については第二編の最後で「宇宙の統一なる神はかかる統一作用の根本である」と言っていました。そこでもう一度第二編を振り返ってみます。

 第二編「実在」では「知識と情意(気持ち)」あるいは「主観と客観」のように、ひとつの現象についての相反するふたつの概念あるいは立場は一致しなければならないと言って詳しく解説していましたが、この一致させることを統一と呼び、一致した存在を合一と呼んでいました。
 そこで統一とはなにを意味するのか、もう一度改めて整理してみます。幾多郎さんが言う統一は制服を着せるというような形式的あるいは機械的な一致を意味したのではありませんでした。統一は"矛盾しないこと"あるいは"共にあること"という意味にぼくは解釈しましたが、それは相反する概念や立場が同時に存在するという意味ではありません。
 では相反する概念や立場を区別しないでおこうという意味なのかというと、そうではありません。意図的に区別をしないというのなら実際には区別はあるということになり、区別をする前の状態だと言えばやはりそこには潜在的に区別はあるということになって、どちらもそれを統一の意味だとするのは間違いでしょう。統一は区別云々の話ではないのだと思います。
 すなわち幾多郎さんの言う統一は、分けようにも分けようがない完全な一致、区別するという作用あるいは機能の外にあるという感覚で捉えるべきなんだろうと思います。その感覚とは般若心経の「色即是空、空即是色」そのものと言ってもよいような気がします。すなわち、ある現象に対する相反するふたつの概念や立場はそう見えるだけで一方を離れてもう一方は存在しない、互いがそういう関係で存在している、という捉え方です。

善は他人を思いやる愛
 幾多郎さんはこの本の主題「人はどう生きるべきか」を考える上でまず「実在」の意味を明らかにさせる必要があると言い、すべてはそこから始まりましたが、ある現象の実在とはその対象となっている存在の本当の姿、すなわち唯一の真実を意味し、それは直接の経験であり「知識」と「情意(気持ち)」の統一でした。
 それなら今、人生の問題を考えているわけですから、その対象が人間だったらそれはどういう意味を持つのでしょう。結論はむしろ第二編の最後に要約されていたと言ってもよいように思われます。
 幾多郎さんが言う統一は荒野に独居する自己の中で完結する統一ではなくて、巷間に大勢と交わる中で自分と他人との統一を意味しています。すなわち人が対象となるとき統一は、自分のこととして他人を思う心、むしろ自分以上に他人を思いやる心を意味しました。自分と他人の区別は完全にないのです。統一が区別という概念の外にあるからです。
 これが仏教の根本義「多即一、一即多」と同じ感覚、すなわち、全体は個があることで存在し個は全体があってこそ存在できる、と言ってもよいのなら、鈴木大拙さんの「即非の論理」からの影響が少なからず見られると考えてもいいのではないだろうかと思います。

幾多郎さんが書きたかったこと
 幾多郎さんが「善の研究」で書きたかったことはなんだったのか。唯一の真実である「実在」の、その究極と言えるものは、それは自分と他人の統一でした。それは宇宙の根本原理とも言える「実在」で、その「実在」を「神」と呼びました。そして「神は無限の愛であり、無限の喜悦、平安である」と表現しました。すなわち宇宙の真理であり根本原理である「実在」は「愛」だと言ったのです。
 幾多郎さんの書きたかったことは"自分以上に他人を思いやる心、それが愛で、それが「善」である"ということでした。ぼくらが普通に考える善し悪しを判断して言う相対的な善とはレベルが違えば次元も異なる「善」でした。

 西田幾多郎の「善の研究」をこんな簡単で、ある意味ありふれているとも言える言葉で、その意味は簡単でもないしありふれてもいないのですが、言い表してしまってもよいものなのか・・・。でも、ぼくには本の中からそう聞こえました。


 幾多郎さんがまだ四高の学生だったころ、金沢の街を歩きながら夢見る如く考えたことを基として、悩みに悩み考えに考えて出した「人生の問題」すなわち「我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題」への、41歳のときの解が「善の研究」でした。幾多郎さんは75歳で亡くなる直前まで著作を続けた、つまり考えるということを止めなかったそうですが「善の研究」は改訂することなく出版され続けたというのはその必要がなかったからでしょう。それは見方を変えると41歳の幾多郎さんが考えたことがそのまま本のなかに保存されているということです。それなら、解説書の類を「善の研究」を読むときの参考にすることは、解説者の思いがどうしても反映さているはずだから、あまり適切とは言えないのではないだろうかとぼくは思います。たとえ「善の研究」が不完全だったとしても、それゆえに難解だったとしても、あるいは哲学の素養がない者が誤読してしまったとしても・・・。
 幾多郎さんがなにを考えなにを書きたかったのかは、書いたときの気分、それは文字では書くことができなくても文章には現れる雰囲気、を感じる取ることでしか伝わってこないのだろうと思います。すなわちそれは他人と自分への、あるいは思いやりあるいは優しさあるいは誠実さ、そして少年のような、幼いのではない、どこまでも純粋な正義感。(2020年4月16日 メキラ・シンエモン)


 哲学はいつか宗教に行き着くと幾多郎さんは言いました。第四偏「宗教」は第二編「実在」や第三編「善」に比べてわかりやすいような印象を受けますが、本人も言っているように、比較的完成度が低いようで、またかなり異質な感じがします。それと第一編「純粋経験」は極めて理屈っぽく書いた「実在」の解説なのかなという印象です。なるほど著者自らが初心者は第一編を省略した方が良いと言う訳です。
 そういうことなどもあって、今のこの気分をそのままにしておきたいので、西田幾多郎「善の研究」についてのページはこれで完結にしようと思います。(2020年4月16日 COVID−19に対する国の緊急事態宣言特定警戒都道府県に石川県が指定された日 メキラ・シンエモン)




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