2-79-KN31

西田幾多郎「善の研究」

「善の研究」第二編第十章 実在としての神 ―神は無限の愛―

 今年が生誕150年の節目に当たる西田幾多郎の「善の研究」を少しずつ読んできて今回は第5回で、第二編「実在」の第4回となりますが、この回で第二編をまとめて、一応の区切りにしようかと思います。
 ところで、ぼくにとって哲学の本は40年も昔、大学の教養課程でカントの「道徳形而上学原論」を読まされて以来です。この本になにが書いてあったのか、もちろんまったくなにも憶えていません。そういうぼくが「善の研究」を読むことは、哲学の素養がない者がもう頭の働きも鈍くなった年になってから初めて読むとどんな解釈をするのか、という実験みたいなものでしょうね。


事実と実在
 幾多郎さんは"人生はなにをなすべきで、どこに安らぎの境地を見つけるべきか"という人生の根源的問いに答を出すためには「知識」(哲学的世界観・人生観=知識的確信)と「情意(気持ち)」(道徳宗教の実践的要求)の間に矛盾があってはいけない、一致しなければならないと考えました。そして一致を統一と呼びました。さらに「知識」は宇宙の真相「実在」でなければならないが、みんなが普通「実在」と思っているものは、目や耳などの感覚器官から入った信号を脳で処理したあと、そこへ人工的仮定すなわち感情、感性、理性が作用したものだから、それは「実在」ではないとしました。
 ではなにが「実在」と言えるのか、それは人工的仮定を排除した直接の体験による事実「直接体験の事実」であると言い、その「直接体験の事実」は「意識現象」であると言いました。また「実在」は「意識現象」とも「物理的現象」とも名付けられないと言いました。

 「実在」が人工的仮定を取り去った疑いようのない事実だと言うのなら、それはいわゆるインテリジェンスにおける分析処理して抽出された信頼できる情報と同じようなものかというと、そうでもありそうでそうでもなさそうです。「実在」は例えば、スミレが咲いている、というような現象を指すだけではなく、個々の現象のその奥深いところにある、原因的、根源的、原理的なこと、宇宙の真理とでも言うべきものを指しています。

「実在」の正体
 では「実在」が人生の根源的問いにどういう意味を持つのか。幾多郎さんは第二編の最後で次のように総括しました。

我々の欲望は大いなる統一を求むるより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人的の自愛というも畢竟この如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大いなる統一を求めねばならぬ。我々の大いなる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表し他人と自己との統一を求むる様になる。我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において自愛におけるよりも一層大いなる平安と喜悦を感ずるのである。而して宇宙の統一なる神はかかる統一的活動の根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。

 幾多郎さんにとっては統一がなにより重要でした。統一は共にあることを意味します。そして究極の統一は他人と自己との統一でした。それは、自分より他人を思い遣る、ということでした。そうすることにより心の平安がもたらされ、その平安が喜悦だというのです。
 そこで喜悦の元とも言えるこの究極の統一とはどうやって達成されるのか、その作用あるいは機能を持つ存在がありました。その存在を「実在」の根底にある精神的原理であると言い、それを「神」と呼び「神」の本質を「愛」と表現しました。すなわち「神」こそは「実在」の正体でした。

「実在」と科学
 第二編は最後に来て俄かに宗教的になりましたが、では幾多郎さんは科学をどう見ていたかというと具体的ではない抽象的なものと考えていました。抽象的というのは仮定の上に成り立っているという意味です。「善の研究」は今から109年前の明治44年(1911年)の刊行です。そのころの科学によって明らかにされていた自然界の様相は今とはちがって桁違いに原始的で、今日知られている多くの重要な理論は影も形もありませんでした。原子核の発見1911年、相対性理論の発表1915年、膨張する宇宙の発見1929年で、量子という物質の捉え方についての概念はすでにありましたが素粒子はまだ発見されていなかったし、遺伝子は知られていましたがDNAの構造はよくわかっていませんでした。ダーウィンの「種の起源」(1859年〜1876年)は進化論としてよく知られていました。(「種の起源」を進化論として読むことには、近ごろは肯定否定両方の立場から様々な解釈があるようです。)
 では幾多郎さんが相対性理論や素粒子物理学の標準理論(今はまだ不完全です)、DNAが細胞を複製する仕組みなどを知っていれば「実在」についての考察はもっとちがう展開になっていたのかというと、そうはならなかったと思います。今でも科学は抽象的と言えるし、なによりも「善の研究」は、その究明すべき対象が科学と同じ宇宙の真理ではあっても、どこからどう近づいていくのか、アプローチの手段、アクセスの方法が科学とはまったく対照的に異なっていました。そもそも宇宙の真理を解明してなにを得たかったのか、解決したかった問題が決定的にちがっていました。"我々は何者でどこから来てどこへ行くのか"ではなくて、"人はどう生きるべきか"でした。
 でも幾多郎さんは科学に無関心だったわけではなく、科学によって知られる宇宙の真理すなわち物理的法則や原理と「実在」は"関係がなくて関係がある"と考えていたんだろうと思います。"実在は意識現象とも物理的現象とも名付けられない"という言葉をぼくはそういう意味だと解釈します。そして、科学と哲学は、それから宗教も、いつか同じところへ行き着くような気がします。


 「神」はどこに居るのか、あるいは在るのか。居ると言えば人格を持つようで在ると言えば人格はないように聞こえます。いずれにせよ「神」は宇宙の遥か向こう側ではありません。第二編を締めくくる"神は無限の愛、無限の喜悦、平安である"という、どこか詩的な気分すら漂うフレーズは、宗教、哲学、倫理、科学、芸術をすべて統一する、人間存在の根源にあるたったひとつの「実在」すなわち「神」を、ぼくら人間の側から眺めたときの風景でした。そしてこの風景から第三編「善」、第四編「宗教」が導かれることを予感させます。
 そういうことなら「善の研究」という本で幾多郎さんが書きたかったこと"人生はなにをなすべきで、どこに安らぎの境地を見つけるべきか"という問いに対する答は、次の角を曲がるとすぐそこに見えているのかもしれません。(2020年3月18日 メキラ・シンエモン)



追記
第三章から第九章までについて、及び「善の研究」の読み方について

 第二編の第二章から第十章にいきなり飛んで書きましたが、第三章から第九章までは第一章と第二章、特に第二章の詳細な解説となっているからでした。
 その説明というのがかなりややこしくて、注意深く整理して読んでいるつもりでいても頭がこんがらかってきて、ああ、解った気になっていたのに・・・ガッカリ、とならないとも限りません。
 この本は、だから、ポイントさえ外さなければあまり細かい理屈に拘らずに考え込まないで読む方がいいみたいです。この本独特の使い方をしている言葉の意味にしても、むしろどこかボーと、直感的に、直覚的に、気持ちで感じ取ることが正しい読み方ではないのかなという気がします。

 第二編のポイントは「実在」がなにかを解った上で、主観と客観という真反対の立場は心の作用によるものだから「実在」においては統一される、ということになるかと思います。それを第三章から第九章でいろいろ切り口を替えて説明しています。その中で第七章「実在の分化発展」は意識(心)と物の関係について書いていて、「意識現象=主観=統一する立場」に対して「物理的現象(物体現象)=客観=統一される立場」である、しかし両者は同じものを見る見方のちがいである、と言っています。つまり"「実在」は「意識現象」とも「物理的現象」とも名付けられない"のです。

 また、自己と他人の区別をしない、つまり自分と他人が統一されることで本当の自己となり、それが「実在」である、と結論付けています。そこから心の平安が導かれます。それはさらに「神は無限の喜悦」「神は無限の愛」という言葉に発展していきます。
 これは「善の研究」の主題"人間はどう生きるべきか"に繋がり、それは第三編「善」で詳しく示されるのだろうと思います。また第四編「宗教」でも見方を変えて語られるんでしょう。


 ところで、この他に第三章から第九章までには科学者や心理学者、宗教家を腐す(くさす)ようなことが随分書いてあります。それは宇宙の真相を解明しようとするときの立ち位置のちがいから来ているのだろうと思います。すなわち、外から観るのか内から観るのか、あるいは、我々は何者かどこから来てどこへ行くのかを考えるのか人はどう生きるべきかを考えるのか、という立ち位置のちがいが批判の言葉になったみたいです。だとすれば、これはちょっと惜しい。幾多郎さんは必要のないことを書きました。

 最後に「善の研究」という本の読み方について、言葉で解ろうとすることは間違っている気がします。(2020年3月21日 メキラ・シンエモン)

第三編「善」へ (2020年 4月16日)


 ホーム 目次 前のページ 次のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。