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西田幾多郎「善の研究」

「善の研究」第二編第十章 実在としての神

フェヒネルはある朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありのままが真である画の見方に耽ったと自ら言っている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはここから考えられたものに過ぎないという考えをもっていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考えに耽ったことが今も思い出される。その頃の考えがこの書の基となったかと思う。

 上は「版をあたらしくするに当たって」と題して書かれた、「善の研究」を開くと最初に出てくる序文のなかの一節です。フェヒネルとはだれなのかは知りませんが、自分ではどこから影響を受けたのかもよくわからないうんと若いころからの考えについて学生だったころに金沢の街をぶらぶら歩きながらぼんやり考えたことが「善の研究」という本の基になっているのかもしれない、というのです。
 では金沢の中心部広坂のあたりを気分を出して歩いてみれば、この難解な書が少しは解るようになるかもしれないのかというと、先の大戦で戦災を免れた金沢ですが、明治のころのままであるわけはなく、広坂のあたりもぼくがこどものころと比べてみても随分と変わってしまったから、それはあまり期待できないでしょう。


実在としての神
 「善の研究」の第二編を旧バージョンの岩波文庫で解説書の類に一切頼らず、自分の考えだけで、くんずねんずして読んでいます。今回は最後の章となる第十章「実在としての神」です。ここに幾多郎さんがこの本で書きたかったことへの手引きのようなものがあるのではないかという気がします。(くんずねんずは金沢の言葉でものすごく苦労する様子。)

 その書き出しはこうなっています。

ここまで論じた所に由ってみると、我々が自然と名づけている所のものも、精神といっている所のものも、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起こる区別である。自然を深く理解すれば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙には唯一つの実在のみ存在するのである。そしてかつて言った様に、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にて言えば、独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本を我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越するものではない、実在の根底が直ちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一したものが神である。

 "統一"とは、服装を統一するなどの統一ではなく、互いに矛盾しないという意味でしょう。"独立自全"は自律のことで、"活動"は作用あるいは機能のことと考えればよいと思います。"無限"はそのまま普通に限りがないという意味です。こう解釈して読むと、精神と自然は「実在」としては同じものである、すなわち「実在」は精神と自然がひとつになったものでそれを「神」と呼ぶ、というのです。そして「神」はこの宇宙と同じ次元にいる、つまり我々の側にいると言っています。言い換えれば、この宇宙のすべての現象は「神」から発散し「神」へ収斂する、ということになるでしょうか。

創造もせず全知全能でもない「神」
 このように「神」を創造主とは言わず、全知全能とも言わないで、この宇宙のあらゆる存在の中心にあるとだけ言っています。これだけでは「神」が人格を持つのか持たないのかははっきりしませんが「八百万の神」でも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でもないのははっきりしています。どちらかというと「胎蔵曼荼羅の中心にいる大日如来」に近い雰囲気を感じます。

 このあと、神を創造主とすることと倫理の拠所とすることを否定する理論が展開します。どちらも人間の利己的欲求から出たもので「直接経験の事実」ではないから「実在」とは言えないというのです。また霊的な体験には言及していませんが、そういうのは論理的あるいは合理的ではない世界の話で、元々考究の対象外だと考えているのでしょう。

無限の愛 無限の喜悦 平安
 「実在」を考察するというより解説している第二編はこの第十章で終わりですが「実在」を解説することには目的がありました。であってみれば最後に「神」が出てくるのはその目的と無関係であるはずはなく、それどころか「神」の登場でその目的が達成されるはずです。
 では「実在」を解説してきた目的はなんだったのかと思い起こしてみると、それは「善の研究」という本を書いた動機である「人生はなにをすべきで、どこに安らぎの境地をみつけるべきか」ということを考えるためでした。そのためには相反す立場にあるふたつの真理「知識」と「情意(気持ち)」が一致していることが必要で、それを考える前に先ず「宇宙の真相」すなわち「真の実在」とはなにかということをはっきりさせておく必要があったからでした。

 それで「実在」とはなんであったかというと「意識現象」の知識で「意識現象」はすなわち「直接経験の事実」でした。そして相反す立場にあるふたつの真理「知識」と「情意(気持ち)」が一致するというのは、「知識」を「自然」、「情意」を「精神」と置き換えれば、「自然」と「精神」が一致するということになり、それが「神」で「実在」の根本は「神」でした。

 こうして「実在」についての考察は「神」に辿り着いたのですが、その「神」はどんな神だったのかと言うと、第十章すなわち第二編は次の言葉で終わっています。

神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。

 夢みる如く考えに耽った末に行き着いた言葉ですね。宗教も哲学も科学も超越した宇宙の原理です。


 ぼくの立場を述べておこうと思います。先ず、哲学と科学はどちらも現象の原因を探りその根本にあるものを突き止めたがる人間の本能的欲望であるという点では同じで、その境目は曖昧だとぼくは思っています。
 意識についてはぼくらには直接認識できないものなのだと思っています。認識はひとつ下の次元にまでしか及ばないという話があります。ぼくらは縦、横、高さ、時間という4次元の世界の住人なので、縦、横、高さの3次元の世界までしか認識できないそうです。時間を認識するということは未来と現在と過去の区別をするということですが、それはどこかに仮の原点を設定しない限りできないことです。だから○○時現在という言い方をします。仮定がなければ認識できないのなら、それ自体は認識できないということです。意識が空間にも時間にも囚われずに自由に行き来することを考えると、時間のさらに上の次元にあるようです。ということは、さらにその上の次元に立たないと認識できないということになります。(2020年3月12日 メキラ・シンエモン)

続く・・・。



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