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西田幾多郎「善の研究」

「善の研究」第二編 実在

 西田幾多郎の「善の研究」を著者の書いた序に従って"初めて読む人"であるぼくは第一編を略して第二編から読みます。
(この先、原典を引用する場合、ぼくの持っている岩波文庫は旧字表記なので新字に直し、送り仮名もない場合は足すことにします。)


第二編 実在  第一章 考究の出発点
 第二編は第一章から第十章までありますが、第一章は「考究の出発点」となっていて、その書き出しはこうです。

世界はこの様なもの、人生はこの様なものという哲学的世界観及び人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる所に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。・・・元来真理は一である。知識に於いての真理は直ちに実践上の真理であり、実践上の真理は直ちに知識に於いての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なるものであるか、真の実在とは如何なるものなるかを明らかにせねばならぬ。

 これからこの本でなにを考えていくのかを宣言しているのですが、それは「人生はなにをすべきで、どこに安らぎの境地をみつけるべきか」ということです。
 そのためには相反す立場にあるふたつの真理、「知識」と「情意(気持ち)」が一致していなければならず、しかしその前に「宇宙の真相」すなわち「真の実在」とはなにかということをはっきりさせておく必要があるというのです。

 これからなにを考えていこうというのかはわかりました。知識と気持ちが一致しないといけないというのはなんとなくわかります。でも「真の実在」とはどういう意味でしょう。「実在」に真ではないものがあるんでしょうか。真だから「実在」なのであり、真ではないなら虚、すなわち「架空」ということで「実在」ではないのだから「実在」に真をつける意味があるんでしょうか。
 こういうことを考える素直ではない人がきっといるだろうと幾多郎さんが思ったかどうかは知りませんが「君らが普通に実在と思っていることは、実は厳密には実在とは言えないんだよね、もっと突き詰めてよく考えてみないといけない」ということを幾多郎さんは言っているようです。

第二編の書かれ方と自分的読み方
 こうして「実在」についての説明が始まるのですが、ここから先は厄介そうだという予想がつくので、先ずは解っても解らなくてもサーと読んでいきます。解らないところが出てくるたびに立ち止っているとそのうち先へ進むのが嫌になりそうだからです。
 そうやって解らなくてもいいからどんどん読んでいくと、幾多郎さんは数学が得意だったといいますが、言葉の説明がまるで数学の公理を説明しようとしているかのようだという印象を受けます。公理は定理を証明するときに必要な仮定ですが、それ自体は証明が不可能なため自明のこととして扱い説明の必要がありません。例えばだれでも知っている「三角形の内角の和は2直角である」は定理ですが「任意の2点 A、B に対して、それらを通る直線 l が少なくとも、ひとつ存在する」は公理です。公理を説明することは極めて困難です。

 幾多郎さんが説明している言葉は「見たことも聞いたこともない馴染みのない言葉」と「普段使っていてもこの本では普通とは異なる意味に使われている言葉」です。そういう言葉について読者が正確に理解することこそ肝心だと幾多郎さんが考えるのは当然で、しかもこの第二編は幾多郎さんの哲学的思考を述べていてこの本の骨子だというのだから、説明に熱も入ろうというものです。
 それをぼくが数学の公理でも説明しようとしているかのようだと感じたというのは、その説明がどこかアクロバティックで、3次元空間に時間ではないなにか別のもう1次元を加えた世界を往ったり来たりしているような気分にさせるからです。つまり頭がクラクラする。
 この本は、ぼくが賢くないからかもしれませんが、書いていることをよほど注意深く上手に整理して読まないと理解できないように、意図的ではないのでしょうが、書かれているんです。「善の研究」が難解だと言われている所以でしょうか。
 でも言葉の意味さえ理解できれば、書いていること自体はそう難解なことではなさそうな気もします。ということは、言い換えれば、幾多郎さんが、なにを書きたかったのか、が解るかどうかは、使われている言葉の意味をどれだけ正確につかめるかで決まる、ということになるのかもしれません。

因果律を疑う
 「実在」とはなにかを考えるというのは、どういうことをすることになるのかと言うと、幾多郎さんはこう書いています。

今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑うだけ疑って、すべての人工的仮定を去り、疑うにも疑いようのない、直接の知識をもととして出立せねばならない。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働きをなす様に考えている。またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっている。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらでも疑いうる余地があるのである。

 物というのは意識に関係なく存在していて、また意識は心が作用した結果生まれるとぼくらは思っているけど、それは間違いで、物も心もすべてはなにかを考えるときに必要があって頭の中で仮定したもので、本当にあるものではないから疑ってみないと本当のことはわからないのであって、それが「真の実在」を理解するということだ、というのです。

 さらに続けて、

物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかの様に考えられているが・・・我々をして物心そのものの存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律に由りて果たして意識外の存在を推すことができるかどうか、これは先ず究明すべき問題である。

と書いています。

 まったくなにも仮定しないときの物や心の存在が直覚的事実(推理や考察をおこなわないで直感的に知る事実)であると思っているけど、それは因果律が関わっているのではないのか、原因と結果の関係で意識する前の物や心の存在を言えるのだろうか、先ずここから考えよう、というのです。

 また、続けてこう書いています。

さらば疑うにも疑い様がない直接の知識とは何であるか。そは唯我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとは直ちに同一であって、その間に主観と客観とを分かつこともできない。

 直覚的経験の事実(直接の経験)=意識現象が疑い様のない「実在」だ、ということのようですが、頭が混乱する言葉ですね。とりあえず放っておきます。そのうち解るかもしれません。


 因果律と言えば、徒然草の最後の段、第243段を思い起こさせます。

お父さん仏ってどういうものなんですか
仏は人が成るんだよ
じゃ、人はどうやって仏に成るんですか
そりゃ、仏の教によって成るんだよ
それじゃ、その教を教えた仏をだれが教えたんですか
だれって、それも先にいた仏の教なんだな
すると、その教を教え始めた一番目の仏はどんな仏だったんでしょう
なにっ、・・・そりゃなんだよ、おまえ、・・・それはだな、空から降ってきたか、土の中から湧いて出たか、・・・したんだろうよ

(2020年3月1日 メキラ・シンエモン)

続く・・・。



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