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西田幾多郎「善の研究」

西田幾多郎「善の研究」について ―読んでみる前に―

 鈴木大拙の「禅と日本文化」(岩波新書)の序は「善の研究」の著者として知られる哲学者西田幾多郎が書いています。幾多郎さんは大拙さんとは同郷同窓で歳も同じだった生涯を通じての親友でした。優れた随筆の書き手でもあったから、書くにもっとも相応しい人の手になる、読むに値する序文だと言えます。幾多郎さんから見た大拙さんがどういう人だったが書いてあって興味津々ですが「私は思想上、君に負う所が多い」と書いて序を結んでいます。
 それなら「善の研究」には大拙さんの思想がどこかに漂っているのか、そのぼんやりとした気配(けはい)のようなものが、読んでみれば感じられるかもしれません。大拙さんと言えば「即非の論理」ですが、3年ほど前に「禅と日本文化」について書き、続編として「即非の論理」についても書きました。


「善の研究」を読む
 ぼくは幾多郎さんの名前を高校生のころから、だれかから聞いたのかなにかの本で読んだのか「善の研究」を書いた人として知っていました。ぼくだけではなく周りのみんなが知っていたと思います。それで高校生にして「善の研究」を読んでいたのかというと、学生運動が盛んだったころで高校生は今よりよほど大人でしたが、難解と言われる「善の研究」を読むなんていう、じまんらしいことをする子はたぶんいなかったと思います。(「じまんらしい」は金沢の言葉で、生意気な、偉そうな、という意味。)
 ぼくも読むことはありませんでしたが、こう見えても金沢人の端くれだ、郷土の偉人の書いた本なら、いつかもっと賢くなったら読んでみたい、と(いくら待ってみても賢くなることなどないとも知らずに)思っていました。
 東京の大学で機械工学科の学生だったころ、通っていた大学がそのころは神田錦町にあって、たまに立ち寄っていた、御茶ノ水の丸善だったか神保町の三省堂だったか、本屋の岩波文庫の棚に「善の研究」を見かけて、そうだいつか読むんだった、と俄かに思い出し、今かな、と思って買いました。そのころの岩波文庫の背表紙についていた☆がこの本はふたつ(200円)だったから地下鉄の切符を買ったおつりで買えました。
 買ってはみたものの、最初のページの最初の数行で、ああこれは無理だ、(まだ賢くなっていなかったね、とは思わずに)機械科の学生なんだし、この本はいいかな、と直ちに宗旨替えしてしまったのでした。

 その岩波文庫(下村寅太郎解題版)は今も家にあって、それを40年以上も経った今ごろになって読んでみようというのです。年を取ったからといって賢くなるわけはなく相変わらずの盆暗ですが、このへんで読まないと読んでみようという気になることはこの先ないだろうと思ったからで、それも若いころに買った岩波文庫が家にあったからそう思ったという程度の気分です。
 いきさつはわかったけど、それだけの理由で「善の研究」を読むの、と思うかもしれませんが、ためになりそうだからとか、おもしろそうだからとか、人に勧められてとか、そういうのは勝手にそう思っているだけのことで、本を読むときの真の動機は目に見えないなにかに導かれてとしか言いようのないもので、それがどこへ導こうとしているのかはさらにわからないことです。

西田幾多郎という人
 幾多郎さんは金沢の人ではありません。今からちょうど150年前の明治3年に金沢の北、ぼくらが宇野気(うのけ)と呼んでいる、かほく市森(当時は河北郡森村)というところで、十村(とむら)だった農家の長男に生まれています。十村というのは加賀藩三代藩主利常さんが農政改革の一環として制定した加賀藩独特の農民の役職で、庄屋なんかよりよほど権力があって、その名の通り10村ほどを束ねて監督していました。当然、裕福な読書階級でした。十村には一向一揆を未然に防ぐという役割もあったので、十村の家の宗旨は浄土真宗以外でなければならず、禅宗それも臨済宗が多かったようです。幾多郎さんの西田家が臨済宗だったのかどうかまでは知りませんが、この出自は幾多郎さんが第四高等中学校(第四高等学校の前身)に学び、そこで知り合った大拙さんと、思想上負う所が多いと自ら明かすほどの親友になったことに無関係ではない気がします。大拙さんも武家の出ではなく加賀八家(藩士の最上位に位置して家老を出す八つの家)の筆頭だった本多家の侍医の家に生まれていて、家の宗旨は臨済宗でした。
 そして第四高等中学校時代の恩師北條時敬(ほうじょうときゆき:数学教師、五代目校長)との出会いが、幾多郎さんの生涯を決めたと言ってもいいようです。北條時敬さんは加賀藩士の家に生まれた人で、教育関係に関心が深い人か金沢検定中級以上に合格している人でもない限り、名前を知っている人はほとんどいないだろうと思いますが、それがどんな出会いだったのか、またこの先生がとんでもない凄い人だったことが、岩波文庫の「西田幾多郎随筆集」に載っている思い出の記述からわかります。これを読んだ人は、ああ自分もそんな先生に出会いたかった、ときっと思うでしょう。

 この「西田幾多郎随筆集」は読んでみるとなかなかおもしろくて、幾多郎さんは明快で味のある文章が書ける人でした。この随筆集には短歌や日記、書簡も入っているのですが、そのころの四高や金沢の様子、東京文科大学選科では米山保三郎(よねやまやすさぶろう:金沢出身の哲学者で、夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる天然居士のモデルともいわれる漱石に作家になることを勧めた親友)が上のクラスにいて、一年上の英文学にいた夏目漱石と一緒に本を読んだこと、木村栄(きむらひさし)博士も四高の同窓で生涯の親友だったことなど、興味深いことがいろいろ出てきます。木村栄さんは加賀藩の下級武士だった家に生まれた、地球物理学で世界的な業績(緯度を計算する式のZ項の発見)を残した天文学者ですが、ゆかりがある岩手の水沢(奥州市)では記念館まで建つほどなのに、出身地の金沢では「金沢ふるさと偉人館」に展示はあるもののその名前を知る人は少なくて、でもぼくは小学生のころから知っていて、というようなことは書き出すとまた長くなるので止めておくことにして、この随筆集を関心のあるところだけ読んでみても、幾多郎さんが哲学者というイメージから想像する理屈っぽいだけの人ではなかった、人間味に溢れた情の人だったことが知れて、写真の印象すら"気難しそう"から"優しそう"に変わってしまいます。
 著者の印象が変われば著作を読む気分も変わります。気分が変われば解るはずのないことまで解ったような気になるかもしれません。

「善の研究」という本
 幾多郎さんは序の中で「善の研究」の読み方に注文を付けていて、金沢の第四高等学校で教えていたときの講義案を基にした第二編と第三編が先ず出来て、第一編、第四編という順に後から加えたが、初めて読む人は自分の思想の根柢(こんてい:根底)である純粋経験の性質を明らかにしている第一編を略する方が良い、というのです。第一編を初めて読む人はなぜ略した方が良いのかは気になりますが、とりあえず、ぼくは"初めて読む人"だから第一編をとばして第二編から読むことにします。第二編は自分の哲学的思想を述べていてこの本の骨子だと書いています。


 難解だと言われている「善の研究」ですが、わざと難しく書いているわけではないでしょう。自分の考えるところを正確に伝えようとしてそうなってしまったのだと思います。それを、楽をしようとしてWikipediaなんかで調べてみてもデータの羅列にすぎないから、知りたいと思うことはちっともわからないでしょう。解説書の類を読んでもやはり解らないと思います。それに解説書が正しいという保証はどこにもありません。そもそも簡単に知ろうとすること自体が大変な間違いで、原書をくんずねんずして読んで幾多郎さんが、なにを書きたかったのか、を自分で見つけ出すしかないようです。(「くんずねんず」は、たいへん苦労する様子を表す金沢の言葉。)
 これから少し時間をかけてそれを考えてみたいと思います。(2020年2月24日 メキラ・シンエモン)

続く・・・。



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