2-145-KN73
小隊付 LIEUTENANT 2ND CLASS
奈良の航空自衛隊幹部候補生学校を昭和56年の2月の末に卒業すると石川県小松市にある第6航空団(6空団)整備補給群修理隊に配属されエンジン小隊付となった。小松は東京に行く前に勤務した基地だったが本籍が金沢であるぼくの6空団への配属は必然だったというのは一般大卒で入る部外幹部候補生は希望を訊かれることもなく原則として実戦部隊に配属され任地は郷土配置と決まっていた。ぼくが小松のエンジン小隊になったと聞いて同期のみんなは、ご愁傷様、と言った。なぜかというと幹部候補生学校から実戦部隊見学として6空団に行ったことがあったがそのときのエンジン小隊長は部外出身の技術幹部で自分はどこどこの大学の修士課程を出ているとこっちがなんの関心もないことを自慢するように言う傲慢な感じの二尉(二等空尉=空軍中尉)だったからだ。ぼくは修理隊エンジン小隊すなわち整備部隊の所属となったがパイロットを目指す者は操縦訓練に入るまえに整備作業を体験するという教育上の慣習はおそらく世界中のどこの国の空軍にもなかったが航空自衛隊にもそんなものはなかった。
ゴールデンウイークが終わって奈良基地での幹部候補生の生活にも慣れたある日の朝、課業開始前にぼくは区隊長室に呼ばれた。そして区隊長の小森一尉(一等空尉=空軍大尉)から、おまえを操縦要員から外す、と告げられた。何かしたわけではないし何かあったわけでもない。それは入校する遥か前、合格発表時にはもう決まっていたことだった。おまえ出願書の病歴欄にアレルギー性鼻炎と書いていたな、受験した時には問題なかったのだが今年度からそれは操縦適性を欠くということになった、いや、基準が変わることはわかっていたらしいのだが次年度のことだったからそのまま合格を出したということのようだ、納得いかんだろう、オレも腹が立つがどうにもならん、と区隊長は言い少し間があって、どうする、と付け加えた。異議申し立て、ということのようだった。ぼくは、なにをいまさら、と思った。どうせ屁理屈を用意しているにちがいなかった。考えてあとで返事します、と答えたが考えるまでもなかった。一限目の授業が終わると区隊長室へ行き、操縦要員から外してください、と風呂の栓でも抜くように言った。言い終えた途端に出るはずのない涙が出てきてうつむくと下瞼から溢れリノリウムの床にぽたぽたと落ちた。悲しくもないのになぜ涙が出るのかわからなかった。ショックではあったが怒りもなかったし悔しくもなかった。むしろなにかから解放されたような気分だった。今考えるとぼくはこのときから辞めようと思いはじめていたのかもしれない。
ぼくの幹部自衛官としての初任地となった小松基地の第6航空団は司令部、飛行群、整備補給群(整補群)、基地業務群(基業群)で編成されていた。小松基地には6空団のほかに空から遭難者などの捜索救助を行う小松救難隊、航空管制を行う小松管制隊、ぼくの古巣で気象観測を行い予報を出す小松気象隊、自衛隊内の警察いわゆる憲兵隊である小松警務隊という諸部隊が常駐していて、冬期は中部航空施設隊第2作業隊が駐留して24時間態勢で除雪をした。整補群は群本部、検査隊、装備隊、修理隊、車両器材整備隊(車器隊)、補給隊から成っていた。修理隊には隊本部である総括班、整備小隊、エンジン小隊、工作小隊があった。整備小隊は油圧、電機、計器、自動操縦の各分隊があって60人ほどがいたがエンジン小隊はもっと大きくて10個分隊100人以上で工作小隊は機体修理分隊と救命装備分隊だけの20人ほどだった。総括班を含めた修理隊全体の隊員数は180人を優に超えたが幹部自衛官は隊長、総括班長、各小隊長、それに小隊長を補佐する小隊付幹部(小隊付)が2名の計7人だけだった。ややこしいことを長々と書いたがこういうことがわかっていないと以下の記述の意味が解らないかもしれないしこの先も頻繁に出てくることになるので予備知識のつもりであえてしつこくくどくどと書いた。
ぼくが修理隊に配属になったときの隊長は防大出で温厚な感じの大桧三佐(三等空佐=空軍少佐)、総括班長は見るからに優秀だがやや神経質な感じもする防大出の藤本一尉、整備小隊長は顔をあわせることが少なくだからこれといった印象のない防大出の大池二尉、整備小隊付は明るい性格の健康優良児で防大出の幹候が一期上の石畑三尉(三等空尉=空軍少尉)、エンジン小隊長は部隊見学のときのあの二尉からありがたいことに防大出で人当たりの良い梅能二尉に代わっていて、工作小隊長は防大出の梅都二尉でどこか古武士のような妥協を許さぬ厳格さが漂っていたがぼくと同い年の飛行機のプラ模型を作るのが好きな人だったからなんとなく気が合った。このうち妻帯者は40前の隊長と30過ぎの総括班長のふたりでそれ以外は独身だったがみんな20代で隊の平均年齢を遥かに下回っていた。
修理隊に配属されてすぐの3月1日付で一等空曹から空曹長に階級が上がったがそれは曹長という階級が新しく設けられたからだった。一か月後の4月1日に三尉に任官し幹部候補生から幹部自衛官になった。その数日後に浜松の第1術科学校(1術校)の整備幹部基礎課程BMO(Basic
Maintenance Officer's course)に入った。入校期間は幹部候補生学校同様に11ヶ月だった。航空機に関する基礎的な知識、主力戦闘機マグダネル・ダグラスF-4EJファントムIIのピトー管からドラッグショートの蓋まで機体のすべてと2基搭載しているJ79-GE-17ターボジェットエンジンの始動方法、そして航空機整備用の工具の使い方から書類の書き方まで整備業務に必要なすべてを教わった。
11ヶ月が過ぎ原隊に戻ると修理隊幹部の顔ぶれは大きく変わっていた。隊長はぼくがBMOに入る直前に部外出身の副宮三佐に交代していたがBMOに入っている間に整備小隊長の大池二尉は他部隊に転出し工作小隊長だった梅都二尉が整備小隊長となり整備小隊付の石畑三尉は検査隊に移っていた。また工作小隊長のイスには防大出で幹候同期だが半年ちかく前にBMOを出ていた西山三尉が座っていた。防大出の候補生は幹部候補生学校の入校期間が6か月とぼくら部外より5か月も短く三尉に任官する日は同じだったがその分早く先へ先へと進んでいた。それはともかく、肝心のエンジン小隊長はどうなっていたのかというと梅能二尉は前年の7月に群本部品質管理班長になり代わりに他部隊から転入してきた部外出身で幹候が一期上の田町三尉が小隊長になっていた。それが危険物取扱主任の資格を取るために1術校に入校中とかで7月まで不在だった。それで隊長が臨時にエンジン小隊長を兼務していたがぼくに、エンジンはおまえに任せた、口は一切出さん、もう死にそうだというときにだけオレのところへ来い、と言って小隊付のまま小隊長業務をすべてやれと命じた。
こうしてBMOを終えたばかりで実務はなにひとつ知らなかったぼくはにわかにエンジン小隊100人を率いる指揮官になった。小隊のだれもがぼくをそれまでの名前+階級ではなく小隊長と呼んだ。 2024年7月4日とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)
つづく・・・
登場人物の名前はすべて仮名です。今回は「同級生 A GIRL STUDENT」の続編でした。ということは「親友 TWO RETIRED MEN」から繋がっているわけです。この続きは「握飯2個 PLATOON
LEADER」を予定しています。アップは未定です。たぶんあいだに関係のない記事が挟まると思います。
ホーム 目次 前のページ 次のページ
ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。