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親友 TWO RETIRED MEN
ついたちの夜、高岡中学の向かいにある女房が女将をしている韓国料理屋でN君と食事をした。N君は過去に一度このHPに登場させている高校の同級生である。10年ほど前に那覇に移住して中国人の奥さんと暮らしているがこの日は法事で金沢に来ていた。
N君とは高校2年ときにクラスが一緒になって以来の仲で半世紀を超える付き合いだが若いころはあまり会う機会がなかった。二十歳ぐらいのころお盆に帰省したとき一度会った記憶がある。大学を出てからはぼくの所属する飛行隊がいた航空自衛隊の基地へN君が面会にきたことがあった。ぼくの方からは自衛隊を退職して東京にいたころN君が勤務していた大手玩具メーカーの栃木県にある工場の社宅を一度訪ねていた。結婚はふたりとも30代に入ってからでN君が先だった。N君の相手は赴任先の中国福建省で知り合った現地の女性で式は金沢で挙げたから披露宴にぼくを招待してくれた。もちろん喜んで出た。一方ぼくはその二年後に韓国人女性と結婚したがソウルで式を挙げたしそのころN君はまだ中国にいたから披露宴に出てくれとは言えなかった。これだけ、高校卒業後ふたりが所帯を持つまでに顔を合わせたのはたったこれだけで4回だ。それから年賀状の遣り取りだけの時期が20年あまりあって50も半ばを過ぎたころからまた会うようになり今回はその5回目だった。すべてN君が金沢に来ているのだが、それはなにか用事があって来るのだが、いつも一週間以上も前に近くそっちに行く予定だと連絡してきてぼくの都合を聞いた。
会うときはきまって双方が細君同伴だった。細君は表現としてちょっと古めかしい。しかし、嫁、連れ合い、女房、カミさんではこの場合言い回しがしっくりこないし、夫人、妻、家内ならもっと変に聞こえる。配偶者などという意味不明の造語は役所かなにかの申請用紙じゃあるまいしもってのほかだ。やや古風でもやはり細君がいいだろう。いずれにしてもいつもこっちもふたり向こうもふたりの四人で会っていた。一度などはN君のふたりの息子も一緒に来ていた。しかし今回はぼくとN君のふたりだった。N君の細君は中国に里帰りしていて来ていない。女房は満席の店内をせわしなく動き回っていた。それはともかく、ふたりだけだと話が弾む。焼酎のお湯割りが温い水割りになりカルビが黒焦げになっているのも知らずに夢中で話した。女将に、つまり女房に、ほかのお客さんを帰らせることができないから、と厳しく追い立てられるまで時間を忘れて話していた。
N君はぼくのHPをよく読んでくれているらしかった。らしかったというのはこちらから更新を通知したことは一度もなかったしむこうから感想をメールして来ることもなくてただ今日みたいに会ったときやなにかの用事があって電話で話したときなどにそう言えばという感じで、ホームページ読んだよ、と、いつもではないが、N君は言うのだった。だからN君が全部の記事を読んでいるのか興味を引かれた記事だけ読むのかはわからなかった。HPの更新は気分次第で立て続けのこともあれば半年もほったらかしということもあるからN君は暇にしているときなどにふと思い出して新しい記事はないかと覗いてみるのだろう。
驚いたことにN君は先月26日に、だからこの日の数日前にアップしたばかりの最新の記事「サンダーバードが消えた日」をもう読んでいた。おまえも年を取ったな元気か、おまえこそジジイになった近ごろ血圧はどうだ、と年齢ならではの再会のあいさつもそこそこに、読んだぞサンダーバードなんとか、とN君はいきなり切り出してきた。そして、今回のはちょっとわかりづらかったな、と批評した。焦点がぼけとったぞ、と言った。
仏像仲間のミキオ君からもおなじようなことを言われていた。昼間に何回読んでも頭に入ってこなかったので寝る前にじっくりと読んでようやくぼんやりわかったような気がしたが話が分散して解りにくかったとミキオ君はメールに書いていた。ふたりともサンダーバードの話には共感し、しかし「21世紀に生きる君たちへ」には反応できなかった様子で、なんのこと、と思ったようだった。ふたりは司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」も吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」も読んでいなかった。どちらか片方でも読んでいれば少しは評価もちがっていたような気がするが、いい年になって少年少女向けに書かれたものを、それならちょっと読んでみるか、という気にならないのは当たり前でぼくがふたりの立場でも同じだっただろう。
もっともN君は、コペル君のコペルというのはコペルニクスのことか、と訊いてきた。そうだよこれこれこういうわけで叔父さんは主人公をコペル君と呼んでいたんだ、と教えると、やっぱりそうか、とN君は満足した様子で得意気に、おれは高校のとき天文部にいたんだ、とぼくが知らなかった新事実を明かした。実はぼくも中学では天文部だったんだ土曜の夜は二水に行って望遠鏡を覗いていた、と告白すると、なんだおまえも天文好きだったのかしかし二水に天文部はなかったぞ、とN君は反駁した。二水というのは県立金沢二水高校のことでN君は高校進学のときあらかじめどの高校に天文部があるのかを調べていた。しかし当時確かに二水には天体望遠鏡のドームがあった。そのころは二水高校の敷地のなかに理科センターだか理科教育センターだかというのがあって、二水高校は通っていた中学校のすぐそばだったからぼくはおなじ天文部のA君に促されると土曜夜の観測会に参加していた。そのうち成り行きでぼくはこのA君との思い出話をしていた。
A君は中学1年のときに同じクラスだったが小学校がちがったからそれまで面識はなかった。入学早々新入生を体育館に集めて部活の説明会があったときA君はたまたまぼくの前に座っていた。天文部に入らないか、と背中をつっついて誘うとA君は、自分もそのつもりだったんだ、と首を左に捻って頷いた。ふたりとも運動部にも入っていてぼくは陸上部だったがA君は野球部だった。そのころの我が陸上部はちょっと乱暴だが熱心に指導してくれる先生がいてめっぽう強かった。一方野球部はそういう先生もいなかったからかあまり強くなかった。同じ運動部だったし野球部にはA君のほかにも友達がいたから試合の応援に行くことがあったがぼくの見ている前で勝ったことはいちどもなかった。そんな野球部でA君は運動能力が野球向きではなかったのかおとなしい性格が災いしたのかまじめに一所懸命練習していたのに3年の間ついにレギュラーにはしてもらえなかった。
しかしA君は学業優秀で県立の進学校筆頭の金沢泉丘高校に新設されたばかりの理数科に入り京大の理学部に進み大学院の博士課程まで出て最後はどこか九州辺りで大学教授になっていたようだった。ようだったというのは風のうわさで聞いたからで、ぼくとA君はそれぞれ別の高校に入った後も親交を保っていたがぼくが航空自衛隊の幹部候補生学校に入ったころからどちらからともなくだんだんに疎遠になっていきいつのまにか行き来は途絶えて今に至っている。そうなったきっかけというかその始まりは高校三年の夏だったかもしれない。
そろそろ受験校を決めようかというときA君はぼくが防衛大学校に行くことに反対した。自衛隊なんかよせおまえは仏像好きなんだからそっち方面に行ったらどうだ自分は彫刻家にも学者にも博物館なんかの学芸員にも不向きだが文化財保護関係の仕事なら興味があるといつかしゃべっていたじゃないか、とA君から言われた。結局ぼくは一般大に進んで卒業後に空自の幹部候補生学校に入ったが防大を断念したのはA君の言葉が影響したからではなかった。ぼくらが高校生のころはベトナム戦争でアメリカの負けが決定的になり国内では大学紛争が漸く下火となったもののその残像のなかで思想や主義とまでは言わなくても主張が左に傾いた生徒がどこの進学校にも普通にいた。A君がそうだったわけではない。
話をN君に戻そう。N君とは実はプラ模型仲間だった。どういういきさつだったかここで明かしておきたいと思うのはぼくとN君の記憶がちがっていることが今回判明したからで、ぼくは飛行機の模型をN君に見せたことがきっかけだったとずっと思っていたのがそうではないこうだったとN君に真っ向から否定された。そうかもしれないとぼくの記憶は揺らいだ。
ふたりの高校は県立金沢桜丘高校だった。金沢市内の進学校は、まるっきりの別格だった附属とか金附(きんつき)とか呼ばれていた国立金沢大学教育学部附属高等学校を除けば、金沢泉丘(いずみがおか)、金沢二水(にすい)、金沢桜丘(さくらがおか)、金沢錦丘(にしきがおか)の順でランク付けされていてこの県立四校に入れば世間は秀才と見なした。世間はそう見ていても自分が秀才だと思っていた生徒はぼくとN君はもちろんのこと桜丘にはひとりもいなかった。
ぼくは中学三年のとき志望校を決めるにあたり担任から、どうする錦ではもったいないな頑張れば二水でも入れるぞしかしおまえ陸上を続けたいなら桜にするか桜なら絶対うかる、と言われた。それが体育の先生の言葉だったからなるほどと思って桜丘に決めた。ということがあったとN君に話すと、一緒だよおんなじことを言われた錦じゃもったいない桜なら絶対大丈夫で二水でもなんとかいけるとおれも先生に言われたんだ、とN君は言った。それでN君が二水にしないで桜丘にしたのは挑戦してみる意欲も元気もなかったからではなく先に書いたように二水には天文部がなかったからだった。
N君は自分で調べて志望校を選んでいたがぼくは担任の先生の助言に従った。そして入ってすぐにこんなはずではなかったと思った。桜丘は県立高校の中では一番部活が盛んだったが特に運動部はなかなかで陸上部は県外にも名が知れていた。しかしぼくは知らなかったがそれは長距離走の話で短距離走やフィールド競技ではまるで知られていなかった。長距離班は厳しく指導する先生がいて師走の京都駅伝にも度々出ていたが、短距離班にはこれと言った実績はなく自分たちだけで楽しく練習していた。中学で熱心な先生の指導を受けて練習に励んでいたぼくにはそれは遊んでいるようにしか見えなかった。そう、ぼくは中学時代短距離の選手でそれも100mハードルで北國スポーツ記録賞をもらっている県陸上界ではちょっと名の通った中学生だった。ぼくは上級生から見ればあるいは生意気なというより迷惑な新入生だったかもしれない。
金沢桜丘高校陸上部の短距離班がどんな練習をしているのかを知らなかったのはしかたがないことだったからぼくは後悔しなかった。が、失望した。めまいがするほどがっかりした。それでも一年の夏休みまではなんとか堪えたが二学期になるともういやでいやでやがて練習に出なくなりついには学校へ行くのもおっくうになった。失望は挫折に変わっていたがそのころはこのごろのように不登校などというトレンドはなかったから学校には毎日行った。ただし時々二時間目から出ていた。つまり遅刻だが遅刻するとまず生徒課に顔を出さないといけなかった。生徒課の先生に、朝体調が悪くて休むことにしていたんですが気分が良くなったので出て来ました、と、もちろん嘘を、言うと先生は、おおそうかそうかそりゃ感心感心よく来たよく来た、とやたら褒めるから生徒課の先生なんてのんきなもんだと職員室を出てぺろっと舌を出した。今にして思えばきっと先生はぜんぶわかっていたのにちがいなくのんきなのはぼくの方だった。
こんなだったから家でも勉強しなかった。家で勉強しなければ外を遊び歩いて嫌なことを忘れようとしたのかと言えば気の小さいぼくは家でおとなしくプラ模型に没頭した。当然の帰結として一年の一学期にはそこそこだった成績は二学期からは下降の一途をたどり二年の二学期の中間テストのあと、この調子でいくとおまえ三年になれないぞ、と担任から脅された。ますます学校が嫌になったから家から自分で作ったプラ模型を学校に持っていって休み時間に出しては眺めて気を紛らわせていた。それを席が離れていたN君が遠くから目聡く見つけてぼくの机の前に立つと、すごいなこんなものが世の中にあるのか知らなかった、と驚嘆の声をあげた。一瞬にしてN君はプラ模型ファンになり、それまで互いに無視していたふたりは忽ち意気投合してプラ模型仲間となった。
このときぼくが学校に持っていったのはレベル1/72のメッサーシュミットBf109E−7Tropという第二次大戦の北アフリカ戦線で活躍したドイツ空軍の戦闘機の模型だった・・・とずっと思っていたのだが、今回その話をしたところ、ちがうちがう、とN君はたちどころに否定し、そうではないタミヤの1/35ミリタリーミニチュアシリーズのフィギュアだった、と断固として言い張った。そして、ドイツ国防軍の歩兵だったメッサーシュミットはおまえの家で見たんじゃないか、とそこまで言うのだからN君の記憶が正しいにちがいなかった。よく考えてみると教室のちいさな机の上に1/72とはいえ飛行機の模型が載っていれば休み時間といえども邪魔だったしそもそも学生鞄にそんなものが入る余裕はなく入れれば必ず壊れていただろから飛行機の模型など学校に持って行くはずはなかった。
こんな話でふたりして盛り上がっていたがそんな懐古趣味は第三者がいなかったから成立していた。もしこれがいつものように女房たちが一緒だったら様子はきっとちがっていた。ぼくらの会話に入ってこられない彼女らは退屈して3分も経たないうちに、ちょっとあんたらもういい加減にしたら、と声をそろえて抗議し、そんなことより、と自分たちの好む取り留めのない話に誘導していただろう。ぼくらふたりきりだったからこそ持てた楽しい時間だった。
N君は国立大学卒業後創業者が金沢の人であった大手玩具メーカーに就職し、はじめ希望したプラ模型部門に配属されたがその後昇進とともに他部門に移った。
N君の人生はぼくが高校の教室に持ち込んだプラ模型との出会いが決めたと言ってもよかった。N君自身がそう言っている。金沢に来るたびにぼくを訪ねるのもそういう過去の背景があってのことだと思う。あるいはプラ模型と出会った少年のころの日々が懐かしく思い出されるような年になりぼくの顔を見てその懐かしい思いに浸りたいのかもしれない。その思いは年齢を重ねるごとに強くなっているのだろう。N君も年をとった。ぼくも年をとった。
ぼくはこの三月いっぱいで勤め先を完全に辞めた。だからN君とふたりきりで食事をしたこの日、四月一日は、偶然にも、新生活の記念すべき第一日目だった。N君は遥か前、那覇に移住した前後に長年勤めた大手玩具メーカーを退職していた。2024年4月21日 とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)
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