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旧友 HP ORIGIN
きのうの朝ウォーキングに出るために背戸の木戸を開けたときメスのアオマツムシが留め具の横にへばりついているのを見つけた。こんなに寒くなってからこんなところに、と思った。死んではいないように見えた。戻ってくるとアオマツムシは少し場所を移動してまだ木戸にいた。やはり死んではいなかったのだ、死んでいれば地面に落ちていただろう。しかし弱っているのは確かでしばらく見ていたが触角も動かなかった。今朝木戸を見るとアオマツムシはいなかった。その辺りを念入りに探したがどこにも見えない。カラスにでも食われたかとは思いたくなかったから最後の力を振り絞って飛んだんだと思うことに決めたらなんだか寂しくなって心が沈んだ。そして1キロほど離れたところに住む旧友のT君の顔を見たくなった。なんの脈絡もないようでぼくの中では筋が通っていた。ぼくは毎年10月になるとなぜかちょっとしたことで心が沈むのだった。
「通りがかりの者です」はT君がいなければ存在しなかった。25年前、韓国から帰って6年目の初夏のある日、金沢市南部の郊外、正確には隣接する野々市市の、うつのみや書店でT君とばったり出遭った。声を掛けてきたのはT君の方でぼくはまったく気が付いていなかった。もしぼくが気付いていてT君が気付いていなければこの出遭いはなかったはずだというのは、ぼくはきっと声を掛けないで逆に気付かれまいと速やかに店外に出ていたからだ。元来ぼくは人付き合いが苦手だがそのころはだれとも会いたくなかったし話もしたくなかった。しかしそんなことをT君が知るはずはないしT君は人付き合いが上手な人だったからぼくの姿を見つけて声を掛けてきたのは自然の反応だった。それなら声を掛けられたぼくがしまったと不覚に思ったのも自然の反応で、でもぼくは自分の心を隠して、やあ久しぶり、ここで会うとは奇遇だ、と思いっきり明るい声で愛想を言ってみせた。
T君は航空自衛隊一般幹部候補生第70期U課程の同期だった。T君とはそれまで面識はなかった。U課程のUは一般大出身の候補生を表したがふたりとも操縦要員で入っていた。つまりふたりともパイロットを目指していた。しかしぼくは在校中に適性を欠くと宣告され一般要員に落とされ卒業後は航空機整備幹部として航空団の整備部隊で勤務した。T君の方は卒業後T-34、T-1、T-33と練習機での飛行訓練を最後まで順調に終えたがパイロット資格取得直前で自ら退職した。その理由はU課程出身者全員がF-4かF-1の要員でF-15の要員ではなかったことがわかったからというものだった。空自の戦闘機パイロットは若者憧れの狭き門だからもったいないと人から言われたかもしれないしあるいは身勝手だと批判を受けたかもしれないが当人は今ごろになってなんだと詐欺にでもあったような心持ちだったに違いない。
空自を辞めたT君は金沢に戻ってデザインスクールへ通った。ぼくも20代最後の年に退職して一旦金沢に戻ったが半年ほどたってから東京に出てある商社に4年半ほど勤めたのち韓国へ渡り外国語学院で日本語を教えた。4年後に日本語講師を辞めて向こうで結婚した韓国女性を連れて帰国した。だからその日の本屋でのT君との偶然の出遭いは奈良の空自幹部候補生学校以来で17年ぶりだった。ふたりとも40代に入っていた。
再会したときT君は数年前に始めたデザイン事務所が絶好調だった。パソコンを駆使して広告などを作成する新進気鋭のグラフィックデザイナーとして大成功をおさめ母校の高校から講演を依頼されるいわば地元の名士になっていた。日曜日だったからT君はこれから自分の事務所に行かないかと誘った。そこは書店から近かった。印刷会社の2階で広くきれいなフロアーには書架があっていろんな雑誌が並べてあったし大きく長い机とデザイン用のデスクトップパソコンが置いてある机がふたつあって別の机には事務作業用か個人用のノートパソコンが1台あった。ぼくはパソコンを持っていなかったがそれを見てにわかに自分も持ちたいと思った。いや前々から欲しいと思っていたからいい相談相手を見つけたと思った。Windows98SEが出たばかりだった。
暫くしてぼくはパソコンを買った。その一ヶ月後にはデジタルカメラも買った。500万画素という今では信じられないほどの低解像度だがそのころの最高画素数だった。パソコンの一般家庭への普及率は30%内外でパソコンもデジタルカメラも今と比べればあまりに低性能にしてあまりに高価格だった。
ぼくにパソコンとデジタルカメラが揃うとT君はすぐにホームページを作ろうと誘ってきた。ブログが登場するのはまだずっと先のことで個人のホームページはどれも日記みたいなものばかりだったが企業や研究機関などのホームページも今よりずっと少なくなにか検索しても出てくるのは多くて数百件だった。
T君の構想はふたりが同じテーマで別々に記事を書いてリンクで繋ごうというものだった。同じテーマでといってもその空間が白山麓であるという以外に共通点はなく何について書くかはまったく自由つまりバラバラでふたりのホームページが共同企画だというのはT君が作った地図にふたりの記事の地点が標されリンクを付けてあったことが唯一の証だった。こうして「通りがかりの者です」が誕生した。
T君は司馬遼太郎の気分が好みだった。小説を熱心に読んでいるようには見えなかったがエッセイは読んでいたようで、貧寒として、という司馬さん独特の表現を、みすぼらしい田舎の風景さえ見つければ必ず口ずさんで喜んだ。T君のテーマは白山信仰で書きたかったのは司馬遼太郎の「街道を行く」のような紀行エッセイだったことは間違いなかった。ぼくは仏像ファンであり神道にはたいして関心はなかったが自然T君のテーマに引っ張られた。しかし異存はなかった。いやむしろ積極的にその世界を探ろうとしたのはどこか憧れに近い感覚で神秘的な秘境として白山麓を見ていたからだったような気がする。
ぼくらはT君のハイエースで出かけた。T君は人の運転する車に乗ることを嫌った。ぼくは助手席でひたすら景色を眺めて何か見つけると停車を要求したがT君はそれを却下することはなかった。月に2回から3回出かけた。それは探索と言って良かったがぼくにとって無上の楽しみとなっていた。ぼくは家に帰ると早速記事を書いたがT君はのんびりしていた。いつもぼくのページが先行した。やがてT君のホームページは四回ほど書いたところで停滞してしまった。しかしふたりで出かけることは続いていたからぼくは記事を書き続けた。T君に催促することはなかった。無駄だとわかっていたしいつかまたその気になれば書き出すだろうと思っていた。でもそうはならないでT君はついに休止を宣言した。対照的にぼくは読んだ人からメールが頻繁に来るようになり書くことがおもしろくなってきていたということもあってますます力を入れて書いた。
数年後T君はとうとうホームページそのものを閉鎖した。ふたりで出かけることがなくなっていたがそれは互いの仕事に変化があったからだった。それから何年かしてぼくも書かなくなっていた。パソコンの普及率があがりホームページも増えてブログが登場し読者から来るメールの回数がめっきり減っていた。ぼくの「通りがかりの者です」はもう役目を終えたんだと思った。新しい記事は書かなかったがサイトは閉鎖しなかった。以前ほどではないが読者からのメールがまだポツリポツリと来ていたのといつかまたという気持ちがあった。
12年も続いた休眠から覚めてぼくは第二部として「通りがかりの者です」を再開したがそのいきさつは「再開にあたって」と題して目次からだけ繋がっているページに書いた。メキラ・シンエモンという名前はT君が本名はやめようと提案してそれに従ったものでふと思いついた名前だったが近ごろ本名も並記するようにしている。URLにtoramotoと入っているし別名を名乗る必要を感じなくなったからだ。むしろ違和感を覚えるようになっていた。メキラ・シンエモンのメキラは十二神将の迷企羅大将から取ったものでシンエモンはテレビアニメの「一休さん」に出てくる室町幕府の寺社奉行蜷川新右衛門を拝借した。
午後ぼくは都合も聞かずいきなりT君を訪ねたが留守だった。最後に会ってから6年ほどが経っていた。もしT君が家にいればきっと歓迎してくれたに違いない。 2023年10月22日 とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)