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佐保路シリーズII

東大寺三月堂 本尊の孤独

 三月堂は法華堂とも呼ばれていますが、どっちが通称でどっちが正式ということはないようです。ぼくは三月堂と呼ぶ方が好きです。三月堂は謎の多いお堂です。三月堂が建っている場所には東大寺が建立されるまえからお寺があって金鐘(きんしょう、きんす)という名前の行者が塑像の執金剛神像を礼拝していたこと、三月堂が東大寺の伽藍となったばかりのころは羂索院と呼ばれていたことが日本霊異記(中の第二十一)に書いてあります。また、金鐘行者が礼拝していた執金剛神像は羂索院の北の戸にあると書いてあって、三月堂に秘仏として伝わる執金剛神像がそれだと言われています。霊異記に登場する金鐘行者は東大寺を建立し初代別当となった良弁(ろうべん)僧正なんだそうです。三月堂の本尊不空羂索観音菩薩像は良弁が羂索院の本尊として祀ったものだったともいわれています。
 二月堂の近くにある開山堂に良弁の肖像彫刻があります。この肖像は平安時代の作で、通常は非公開なので写真でしか知りませんが高倉健に似た顔で、大きな目に力があって口を固く結んで強い意志を感じさせながらどこかひょうきんにも見えその人柄が窺えます。三月堂の不空羂索観音像にどこか通ずる人を惹きつけるなにかがあるような気がします。


四月堂
 二月堂の茶所で十分休んだら隣の三月堂へ行きます。東大寺に来たら大仏殿は観なくても三月堂へは必ず行くことにしています。その前に扉が開いていた四月堂を覗きました。小さなお堂です。階段を上まで登るともうそれだけで本尊の十一面観音菩薩像が見えます。拝観料は要りませんが、靴を脱いで上がることはしないでそのまま階段を降りてきました。ミキオ君は関心がなかったみたいで階段の下で待っていました。

二月堂から見た四月堂 前に工事車両が停まっています

石灯篭
 三月堂は天平時代の正堂(本堂)に礼堂を鎌倉時代に繋いでひとつのお堂にしていますが、拝観入り口のある礼堂の正面に一基、すっくと立つ古びた春日灯篭があります。鎌倉時代のもので作者はあの伊行末(いぎょうまつ)です。憶えていますか、般若寺の十三重石塔の作者です。ちなみに南大門の狛犬も彼の作です。南大門に狛犬がありましたっけ・・・。仁王様の裏に180cmの大きなのがあります。2体とも阿形です。見ていても気にかけていないから憶えていないんです。

三月堂内陣
 入り口は礼堂の東側面にあります。6年ぶりに来ました。中に入ると礼堂内は板敷ですが正堂の方は土間になっています。もとはどちらも板敷だったそうです。内陣に安置されている仏像は10体ですが、秘仏の執金剛神像は本尊の背後で厨子に入っているので見えません。見えているのは9体です。本尊不空羂観音菩薩像363.6cm、その左右に梵天像394.0cmと帝釈天像394.0cm、前方左右に金剛力士像(阿形342.4cm、吽形348.5cm)、四隅に四天王像(持国天330.0cm、増長天303.0cm、広目天327.6cm、多聞天303.0cm)、合計9体の巨像が林の如く立っています。いずれも脱活乾漆像です。これだけ多くの仏像がそれほど広くない堂内に並べばかなりの三密状態ですが、大きさが大きさだけにその迫力はすさまじく観る者に与える圧迫感はかなりのものです。何回来ても同じことを思います。でもそれははじめだけで、しばらく見ているとなんか変だなと思えてきます。どこかアンバランス、なにかチグハグに見えてきます。いつもはそのままにしてしまうことを今日はどうしてそう思ってしまうのかを考えてみました。

孤独な本尊
 本尊の不空羂索観音菩薩像は腕が8本もあって非人間的な姿ですが、眉間に三番目の目、縦に細長い目が付いていて観音様らしくない怖い顔だし菩薩像にしては厳しい表情を持っています。像全体からも引き締まった緊張感が感じられます。それに対してほかの乾漆像は雰囲気が異なっていて、いろんなポーズで決めていますが肢体の動きはなんとなくぎこちなく、緊張感なくダラリと立っているようにも見えます。本尊とのバランスも大きすぎて不釣り合いです。そのためなんでしょう、本尊との一体感がなく、本尊、脇侍、眷属、それぞれがそれぞれに存在しているといった印象です。ぼくが感じるアンバランスとチグハグはこの本尊と脇侍眷属のバラバラ感にあるように思います。そう、ご本尊は孤独でした。

博物館へ入った日光・月光
 ぼくが初めて三月堂を訪れてからもう48年にもなりますが、その頃は不空羂索観音菩薩像と同じ須弥壇上のその両脇に塑像の日光菩薩像200.0cm、月光菩薩像206.0cmがありました。さらに須弥壇の後方の左右に2メートルほどの塑像の吉祥天像と弁財天像が収められた厨子があって、金剛力士像の足元には小さな木造の地蔵菩薩像と二童子を従えた不動明王像が置かれていました。合わせて8体です。今はこの8体全部が東大寺ミュージアムに移されています。移された理由は三月堂内陣を本来の姿に戻したというのです。地蔵菩薩と不動明王は鎌倉時代の作であり、吉祥天と弁財天はよそから移されたいわゆる客仏だったそうです。
 では日光・月光菩薩像が移されたそのわけはというと、本尊とは異なり塑造である、通常は薬師如来の脇侍である、その像容から梵天・帝釈天像ではないかと思われる、したがって別のお堂から移されたと考えられるというのです。つまり、普通ならそこにいるはずがない、というのがそのわけでした。

もうひとつの組み合わせ
 三月堂内陣の本来の安置仏については上とは異なる説があります。本尊を取り囲む巨大な乾漆像群ははじめから三月堂にあったのではないという説です。粗材に拘る必要はないという考えです。それによると当初の安置仏は本尊脱活乾漆造不空羂索観音菩薩像、その脇侍として塑像の日光・月光菩薩像、そして守護神として現在戒壇堂にある塑像の四天王像が須弥壇の四角にあったというのです。須弥壇に残った痕跡が見つかっています。ぼくはこの説が正しいと思います。頭の中で、八角形二段になったの須弥壇の上の段の中心に不空羂索観音菩薩像を置き、その両脇に日光・月光菩薩像を並べ、下の段の四隅には戒壇堂の四天王像を立たせてみると、三密からもバラバラ感からも解放され余裕がうまれ安定感も増して本尊を際立たせる統一感のある内陣が出現します。これは勝手な想像だから自分に都合よく見ているだけかもしれない、ぼくの気分の話であって学術的な考察ではないし信仰による感得でもありません。でも、こうやってぼくはいつも仏像を観て来たような気がします。


 三月堂を出て、少し下がったところにある老舗の和カフェ「あぜくらや」でみたらし団子を食べようかと思っていたんですが、二月堂茶所で休みすぎていたしミキオ君は食べたくないようだったから我慢して、そのまままっすぐ東大寺ミュージアムへ行きました。三月堂から移された日光・月光菩薩が展示されていますが、耐震化工事中の戒壇堂から四天王像も来ています。観に行かない手はありません。日光・月光菩薩像を観て、戒壇堂の四天王像を前から右から後ろから左からぐるりぐるり何度も回って観ていました。ここへ三月堂から不空羂索観音像も持ってくれば・・・とは思い付きませんでした。(2022年6月14日 メキラ・シンエモン)

東大寺はここまで、次は奈良博です。大安寺からほとんどの仏像が来ていました。



写真:メキラ・シンエモン


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