近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

補 足   テロリストの碑

尹奉吉

 尹奉吉は1908年に韓国、忠清南道(チュンチョンナンド)の礼山(イェサン)というところで生まれています。ほとんど独学で知識を身に付け、農村復興運動に力を尽くしますが、後に抗日独立運動に参加、23歳の時、妻子を残して上海に亡命します。そこで臨時政府を作っていた金九(キムグ)に出会います。そして、1932年(昭和7年)4月29日、尹奉吉は上海において天長節祝賀式典を行っていた日本軍に対して爆弾テロを行います。このテロ行為は金九の命令によるものだったとも言われています。
 爆弾を投げたあとの尹奉吉は逃げ隠れせず、日本軍の憲兵にその場で逮捕されます。テロが軍隊に対して行われたため、事件は軍の管轄で処理されることとなり、軍法会議で死刑判決を言い渡されました。判決後は大阪の陸軍刑務所に収監されていましたが、12月18日に金沢の陸軍刑務所に移されることになります。行き先は知らされていなかったようです。
 大阪から金沢に移された理由は、金沢が爆弾テロの標的にされた第9師団の司令部所在地だったことによるもののようですが、事件そのものを闇から闇へ葬ろうという陸軍の企図もあったのだろうと思います。

 移動には汽車が使われたようです。尹奉吉が西金沢駅のホームに降り立った時、雪がちらついていたかも知れません。底冷えのする随分と寒いところへ来たなと思ったのではないでしょうか。彼には自分の連れて来られた場所についての知識は無かったろうと思いますが、目に映る、あるいは耳に聞こえてくる様々なものから、自分のいる場所がどういうところかは、すぐに分かったに違いありません。彼は日本語が話せたはずですが、出身地である忠清南道の人達の話す韓国語は、ゆっくりと話す上に語尾を長く伸ばすという特徴があり、金沢人の話し方に似たところがありますから、人々が話しているのを聞いて、町並みは似ても似つかぬものではあっても、どこか生まれ故郷に似ていると感じていたかも知れません。(降ろされた駅は森本駅で、収監されたのは金沢城内歩兵第9師団司令部の衛戌拘禁所であったという話もあります。)

 金沢へ移送された翌日の早朝、三小牛山の陸軍施設へ連れて行かれ、この場で直ちに銃殺されることを告げられます。刑が執行される時、取り乱すこともなく目隠しを拒否したといいますが、柱を背にした時には、既に気持ちの整理をつけていたのでしょう。こうなることは初めから覚悟のうえのことであってみれば、家族に済まないという気持ちはあったとしても後悔の念はなく、民族へ思いはそのままに、しかし、恨みや憎しみの気持ちは忘れていたのではないでしょうか。小銃が向けられた時、心には故郷の山河を想っていたではないかという気がします。眉間に一発の小銃弾を受け即死だったようです。享年24歳でした。

 尹奉吉の故郷である忠清南道は、昔は抗日運動が盛んだったところです。ソウルから南へ80キロ程行ったところに、忠清南道で二番目に大きな天安市(チョナンシ)という、人口10万ぐらいの都市があります。その天安市から東へ30キロ程行くと、並川面(ピョンチョンミョン)という小さな村がありますが、そこのバス停近くに「3.1独立運動発祥の地」と刻んだ小さな石碑が立っています。
 天安市から並川面に行く途中の木川面(モクチョンミョン)というところには独立記念館という、韓国の小学生がこぞって修学旅行に行く、民族の歴史に関する大規模な展示館があります。この独立記念館でもっとも念入りに展示してあるのが、日本に併合されていた時代の様子で、日本人だと分かると何かされるんじゃないかと、日本語は一言もしゃべれないような雰囲気になっています。
 ここには尹奉吉に関する展示もあるのですが、伊藤博文を暗殺した安重根(アンヂュンクン)に関する展示と並ぶくらいの大きなものになっています。一番目を引くのが、戦後遺体が発掘された時に三小牛で撮られた記念写真で、大きく引き伸ばして掲げてあるその写真の説明には、金沢と書いてあります。彼の出生地の礼山に保存されている生家の展示にもこれと同じ写真があります。
 ところが、ソウルにある尹奉吉記念館や戦争記念館の展示では、尹奉吉の処刑地は大阪になっていて、また、韓国人の書いた韓国史の本にも大阪で処刑されたことになっているものがあって、その最後の地が金沢であったことは、韓国でもあまり知られていないようです。(メキラ・シンエモン)


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