補 足   白山麓の「堅とうふ」 続き

追記 その後の連載

追記 1


 8月2日までに来た連載の第四回と第五回の二回分をまとめると、

 はじめ、奥さんの話を信用しなかった与作さんも、自分でタビノの中を覗いてみて、漸く豆腐がなくなっていることを知ります。そして、これは山道を登ってくる間に豆腐が崩れてしまって、みんなタビノ(背負い籠)の底からこぼれてしまったのだと思います。残念がったり悔しがったりした与作さんは、次に山を下りた時、豆腐屋へ寄って、豆腐が崩れてしまって食べられなかったことを話し、山の者でも豆腐が食べられるように堅い豆腐を作ってくれと頼みます。
 そう言われて豆腐屋さんも、もっともだと思い、早速、堅い豆腐を作り始めます。しかし、京風の軟らかい豆腐しか作ったことがなかったのだから、そう簡単にはいきません。豆腐はすりつぶした大豆に水を加えて熱したもの(これを呉というそうです)を布でこし、出てきた汁(豆乳)ににがりを加えて固めて作ります。試行錯誤の末、呉をこす時に使う布を絹から木綿に換えてみたら、前よりも堅い豆腐ができました。
 堅い豆腐ができたことを知らされて与作さんは喜びますが、本当に崩れないほど堅い豆腐ができたのかと少々訝って、同じしくじりを二度したくないと思い、四角い豆腐が崩れないようにと一升ますを入れ物に用意すると、大豆を一斗(10升、約18リットル)を携えて豆腐を買いに行きました。
 与作さんは豆腐屋さんに、わしらみたいな山の者の言うことをよく聞いてくれたとお礼を言うと、これからも堅い豆腐を造る工夫を続けてくれと言って、持ってきた一斗の大豆をプレゼントしました。
 与作さんは豆腐を崩さないようにと注意深く歩き、今度は無事に豆腐を家まで持って帰ることができました。しかし、豆腐が崩れなかったのは一升ますに入れてあったからで、豆腐の堅さはまだ不十分だと与作さんは思います。とにもかくにも、奥さんも子供たちも初めて食べる豆腐に大喜びしたのでした。
 一方、与作さんに一斗もの大豆をもらった豆腐屋さんは感激して、ますます熱心にもっと堅い豆腐を作る研究に励みます。
 連載第五回はここで終わっています。白山麓名物「堅とうふ」の誕生までもう一歩のようです。(平成14年8月3日 メキラ・シンエモン)


追記 2


 「堅とうふ」の連載はメールマガジン8月16日号掲載の第六回が最終回でした。

 与作さんに励まされた豆腐屋さんは「堅とうふ」を完成させようと精を出します。何をどうやったのか、残念ながら詳細には明かされていませんが、試行錯誤の末、わら縄で縛っても崩れない硬い豆腐が完成しました。
 豆腐屋さんは早速与作さんを呼び、二人は店先で杯を酌んで「堅とうふ」の誕生を祝いました。肴は、今できたばかりの「堅とうふ」を刺し身にしました。ワサビ醤油が合うと与作さんは思いましたが、豆腐屋さんの家にワサビは無くてショウガが有ったので、とりあえずショウガ醤油で食べたそうです。つまり「堅とうふ」の一番おいしい食べ方も、その完成と同時にこの二人によって試されていたわけです。

 白山麓名物「堅とうふ」の誕生は、家のみんなにも豆腐を食べさせてやりたいと思った白峰の「出作り農家」の与作さんが、山の者でも豆腐が食べられるように持って帰る途中で崩れない硬い豆腐を造ってくれ、と村の豆腐屋さん(なぜか名前が伏せてあります)に頼んだことがきっかけでした。
 与作さんの願いにみごと応えた豆腐屋さんは、元々は豆腐屋でも何でもありませんでした。冬季の仕事が無い時期に京都の豆腐屋へ出稼ぎに行き、そこで豆腐屋の作り方を教わってきたのですが、実は、普通なら出稼ぎの人は薪割りなどの雑用ばかりやらされて、豆腐の造り方なんてとても教えてもらえないところを、この人はとても一所懸命にせっせと働いたので、その真面目さに感心した豆腐屋の主人から特別に豆腐造りを教えてもらったのでした。そんな人だったからこそ「出作り農家」の頼みを聞いて「堅とうふ」を作り出すことができたのでしょう。また、与作さんの、一斗の大豆をプレゼントしてまでの激励が無ければ、豆腐屋さんも「堅とうふ」を作り上げることはできなかったかもしれません。
 豆腐屋さんと与作さん、この二人の誠実さと情の深さが「堅とうふ」を生み出したのでした。あるいは、二人は祝いの杯を重ねるほどに、厚い友情を感じていたのかもしれません。(平成14年8月17日 メキラ・シンエモン)



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