近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

参 考

上海事変

 上海事変は、昭和7年(1932年)1月18日の第一次と、昭和12年(1937年)8月9日の第二次の二度起きていて、ここでいう上海事変は昭和7年の第一次の方です。
 満州事変(昭和6年)の直後から、上海では中国人による大規模な抗日運動が起こりますが、上海事変はその抗日運動の激しいなか、上海で起きた中国人による日本人托鉢僧襲撃という事件がその発端でした。
 満州事変に関して日本は、いわゆる列強といわれていた国々から激しく批難されていましたが、当時、上海には日米英の共同租界とフランス租界がありました。そのため上海で起きた中国人による日本人托鉢僧襲撃は、それら列強の注意を満州から引き離そうとして起こした関東軍参謀の謀略によるものだったと言われています。
 日本人托鉢僧襲撃事件の後、1月28日に、日本海軍の陸戦隊と中国軍とが衝突して戦闘状態となります。最初、中国軍の方が優勢で、苦戦を強いられた日本は、2月に入って上海派遣軍(司令官は陸軍大将白川義則)を編成して戦線に投入します。この上海派遣軍の中核になっていたのが、金沢の第9師団(師団長は陸軍中将植田謙吉、摩下の歩兵第7連隊は石川県人によって編成されていた部隊)でした。
 上海派遣軍と中国軍の間では、2月20日に大規模な戦闘が行われますが、なかなか戦闘に決着が付かないため、日本は増援部隊を送ります。その結果、中国軍が退却し戦闘が終結したのは3月になってからでした。戦闘による日本軍の戦死者は769人でした。
 また、この時、日本海軍は空母「加賀」を派遣していますが、2月22日に蘇州上空で日本の艦上攻撃機(三菱十三式三号艦上攻撃機)1機が、アメリカ人義勇兵の操縦する中国軍戦闘機(ボーイング218)1機に撃墜されますが、その直後、日本の艦上戦闘機(中島三式二号艦上戦闘機)3機がこれを撃墜して、日本海軍最初の空中戦による戦果を挙げました。
 地上戦闘の終結後、停戦交渉が行われ、停戦協定が成立したのは5月5日でした。この停戦交渉中の4月29日に、上海において尹奉吉による日本軍に対する爆弾テロ事件が起きました。
 この上海における日中両軍の戦闘の間に満州では、日本がハルビンを2月に占領し、3月1日には満州国を樹立させています。上海事変は満州事変に密接に関わっていた戦争でした。(メキラ・シンエモン)


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