2-77-KN29

西田幾多郎「善の研究」

「善の研究」第二編第二章 意識現象が唯一の実在である

 第一章では「実在」とは疑いようのない知識のことで、それは「意識現象」に基づく知識であると言っていました。「意識現象」とは「直接経験の事実」のことだというのですが、いずれにしても耳慣れない言葉です。第二章以降はその「意識現象」に関する解説です。第二章以降の構成は次のようになっています。
第二章 意識現象が唯一の実在である
第三章 実在の真景
第四章 真実在は常に同一の形式をもっている
第五章 真実在の根本的方式
第六章 唯一実在
第七章 実在の分化発展
第八章 自然
第九章 精神
第十章 実在としての神


意識現象と物体現象
 第二章には「意識現象」に対する言葉として「物体現象」という言葉が出てきます。

普通には我々の意識現象というのは、物体界の中特に動物の神経系統に伴う一種の現象であると考えられている。しかし少しく反省してみると、我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体は反って自己の意識の中にあるのである。神経中枢の刺激に意識現象が伴うというのは、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象に伴って起こるというにすぎない。もし我々が直接に自己の脳中の現象を知り得るものとすれば、いわゆる意識現象と脳中の刺激との関係は、ちょうど耳には音と感ずるものが眼や手には糸の振動と感ずるのと同一であろう。

 なにを言っているのか、かなり解りにくいですね。”物体界の中特に動物の神経系統に伴う一種の現象”および”意識が神経中枢の刺激に伴う”というのはどういう意味なのか、さっぱりわかりませんが、要するに「意識現象」というのは「物体現象」からの刺激に脳が反応することで現れる現象だと普通は考えられているがなんの考察も加えていない直接経験した事実そのままの「物体現象」が「意識現象」であって、「物体現象」になにかの思考が働いて認識されたものは「意識現象」ではない、と言っているようです。
 結局今まで述べてきたことの繰り返しなんですが、新しく「物体現象」という言葉がでてきました。「物体現象」は「物理的現象」と言い換えてもよいと思います。「物体現象」すなわち「物理的現象」は「意識現象」に対向する概念になっているので、この「物理的現象」と「意識現象」の関係の捉え方は般若心経の超有名なフレーズ「色即是空、空即是色」そのものです。それは、このあとに出てくる次の文からも確かです。

余がここに意識現象というのはあるいは誤解を生ずる恐れがある。意識現象といえば、物体と分かれて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられないものである。

 この文章は超難解に思えますが、物体は精神を離れては存在せず、また物体を離れて精神は存在しない、と言っているのだから、これは「色即是空、空即是色」と同じ意味です。
 また真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない”というのは、真実在は「意識現象」であり「物理的現象」でもある、このふたつの現象は異なるものだが同じものだ、という意味にも取れるので、これは大拙さんの「即非の論理」そのものです。

因果律
 ところで「意識現象」だけが実在だとすると、意識は常に変化しているのだから、そこには原因と結果の関係、すなわち因果律が成立することになるのですが、それは問題だと幾多郎さんは言います。
 なにが問題かというと、原因をどこまでも突き詰めていくと最後にはなにもないところに行き着いてしまい、空から降ってきたか土の中から湧いて出たか、とでも言うしかなくなります。つまり無から有が生じたことになってしまい、そうすると「意識現象」は「実在」とは言えなくなると言うのです。「無」は「直接経験の事実」とは言えないから、ということのようです。
 そこで幾多郎さんは、それは因果律を誤解しているのだ、と言います。

ある現象の起きるには必ずこれに先立つある一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の存在を要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれておったのでもなく、またどこか外に潜んでおったのが引き出されるのでもない。ただ充分なる約束即ち原因が具備した時は必ずある現象即ち結果が生ずるというのである。約束が完備しない時これに伴うべきある現象即ち結果なるものはどこにもない。・・・それである現象にある現象が伴うというのが我々に直接与えられたる根本的事実であって、因果律の要求は反ってこの事実に基づいて起こったものである。然るにこの事実と因果律とが矛盾する様に考えるのは、つまり因果律の誤解より起こるのである。

 なんのことか解りますか。むずかしいですね。因果律はある特殊なケースで成立するのであって常にそうだとは言えないというのです。そしてこのあとの文章では、無は物がないといっても無の意識が存在していて、意識は時、場所、力の数量的限定には無関係で機械的因果律の支配を受けないから、意識においては無から有を生ずることができる、と言っています。つまり意識には無が存在していて、それは意識が物理法則の外にあるからで機械的な因果律は当てはまらないというのです。
 でもこれはちょっと変です。先に「物理的現象」は「意識現象」であると言っていたのだから、これは同じものに、ある時は因果律を認め、別のある時には因果律を認めない、ということになるような気がするのですが、どうなんでしょう。隅々まで難解な本です。

 そもそもどうして無から有が生じてはいけないんでしょう。なにもないところからぼくらが生まれたということになると、哲学の根本にある動機、我々は何者で、どこから来てどこへいくのか、という問いが根底から崩壊すると思っているのでしょうか。
 科学も同じ動機から出発していますが、無から有が生じることを否定してはいません。むしろその「無」とはなんであるかを探っています。「無」というとわかりにくいのですが、これを最初の状態、例えば「宇宙の始まり」と考えれば、宇宙は138億年前に誕生したことがわかっています。わかっているといってもそれは「宇宙のインフレーション」と呼ばれている誕生直後10のマイナス36乗秒から10のマイナス34乗秒の間に起きた現象からあとの話で、その前になにがあったのかはまだわかっていません。
 またニュートンの力学では説明できない、人間の感覚では捉えることができない現象を説明する相対性理論が考え出され、質量はエネルギーに変換されることがわかりました。それは実体がある物質と実体がないエネルギーは同じものだという意味ですが、あらゆる物質を構成している原子は、粒子と波の性質を兼ね備えて持つ素粒子という、実体があるともないとも言えないような物質の組み合わせになっている(原子核の中身である陽子と中性子を構成するアップクォークとダウンクォークおよび原子核の周りを回る電子)ということもわかっています。ちなみに力を伝えるのも素粒子なら、質量を与えているのも素粒子です。それらが存在することの証明はすべて数学的にすなわち数式によって現わすという説明方法なのですが、それが真実だと認められているのは再現可能すなわち実証可能だからです。スタップ細胞が捏造であるとされたのは再現できなかったからでした。つまりこの宇宙は矛盾している因果律で存在しているのです。きっとぼくらも矛盾している存在なんでしょう。

 「直接経験の事実」を「意識現象」と呼び、それが唯一の「実在」であるとすることには、なんの問題もないとぼくは思います。幾多郎さんは「意識現象」という言葉に含まれる「意識」という精神作用を表す言葉に拘って要らぬ説明をしているみたいです。精神作用は物質世界の現象とはちがって、どうやってみても正確には再現できないものであってみれば「意識現象」に因果律が当てはまるかどうかを考えることは、証明できないものを説明しようとしているように思えます。この因果律の問題は、幾多郎さんは先ず解決しておくべきことと言っていましたが、思考のための思考をしているように見えます。


 幾多郎さんは科学とは「実在」を扱うものではないと考えていたようで、数学の才能があったという幾多郎さんが科学をそういう風に見ていたのだとしたら、ちょっと不思議な気がします。大拙さんは「禅と日本文化」のなかで、科学は抽象的なものだと言っていましたがその影響でしょうか。それは第十章「実在としての神」まで読んでみればはっきりするかもしれません。(2020年3月6日 メキラ・シンエモン)

続く・・・。



 ホーム 目次 前のページ 次のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。