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おにぎり2個 PLATOON LEADER 続編 パイロットと柔道家

パイロット

 幹部候補生学校から真冬の1月に那覇基地の第83航空隊へ研修に行ったことがあった。ぼくらに那覇基地の概要を説明してくれたのは2等空佐で自衛隊の外にもちょっと知られた名パイロットだった。ぼくはこの人と2年ほど後に小松基地でわずかながら関わった。それは強烈な印象で忘れがたいものだったが向こうはぼくのことは那覇では気付いていなかったに違いないし小松でもただちに忘れたことだろう。


 修理隊から306飛行隊に移るすこし前だった。基地副直幹部に就いているときに早朝の非常呼集がかかった。いつものようにサイレンを鳴らし基地内に放送した。これまでとなにひとつ変わらずすべてマニュアル通りにやった。が、クレームがきた。
 財布をどこかで落として慌てて交番に駆け込むようなけたたましさで防衛部長が当直室に入って来て、いまの放送をしたのは君か、なぜだ、と飼い犬を叱るような大声で怒鳴った。マニュアルにそうあります。見せろ。これです。ううぅ〜、違う、赤鉛筆。赤鉛筆を渡すと防衛部長は紙が破れそうな勢いでマニュアルの一部を二重線で消して書き直した。ぼくは呆気にとられた。そして、これでやれ、と言い捨てて空き缶でも蹴飛ばすように荒々しく部屋を出ていった。
 防衛部長は下駄のような四角い顔をした操学(操縦学生=航空学生)出身の2等空佐でブルーインパルスの隊長を務めたこともあり仲間内では"ターボ"と呼ばれていたそうだが飛行機好きの間ではプラモデルファンとして知られていたというのは「航空ファン」誌や「航空ジャーナル」誌といった航空雑誌でそんな記事を読んだことがあった。その雑誌上の人物がいきなり目の前に現れてぼくは怒鳴られた。
 防衛部長は那覇から小松に異動になったばかりで小松での非常呼集ははじめてだったにちがいない。副直幹部つまりぼくの放送を聞いてそれが那覇とは異なることに、いや、防衛部長にしてみればまったく間違っていることに気付いた。ところが当直室に怒鳴り込んでみればマニュアルが副直の放送した通りになっていた。ひょっとして那覇のマニュアルは自身が作っていた。そして、これではいけない、ただちに正さなければならない、という少年のような純真の正義感からその場ですぐに書き直したのだろう。直情径行と言えばそうで痛々しいほどに典型的なパイロット気質の人だった。

 ぼくはこの防衛部長によって書き直されたマニュアルで放送した覚えがない。306飛行隊の整備小隊に移るまでにもう基地副直幹部に就くことがなかったのか一度ぐらい就いていたとしてもそのときは非常呼集がかからなかったのだろう。飛行隊の幹部は基地当直に就かなかった。


 防衛部長がマニュアルのどこをどう書き直したのかはまったく憶えていないが、じゃあ今までの放送はあれはいったいなんだったんだ、と思ったことをよく憶えている。




柔道家

 70年代前半の大相撲に大麒麟という大関がいたがそのお兄さんは航空自衛隊の幹部自衛官になっていた。堤さんといったがぼくはこの人をちょっと知っていた。体は人並み外れて大きくて腹が出ていて顔は大麒麟関そっくりだった。堤さんは生徒出身で生徒というのは自衛隊生徒のことで少年自衛官ともいったが中学を出てすぐに入る空曹候補生で採用試験に通るには県立の進学校へ入れるくらいの学力が必要だった。生徒隊は熊谷基地(埼玉県)の第4術科学校内にあったが入校すると生徒だけの階級3等空士となり進級を重ね4年で終了すると3等空曹に任官した。浦和高校の定時制の卒業証書がもらえたから防衛大学校に進む人もわずかいたようだが部内選抜の幹部自衛官になる人が数多くいた。


 ぼくは高校を卒業してすぐに第144期の新隊員として航空自衛隊に入ったが石川県は西日本なので教育隊は防府南基地(山口県)の第1航空教育隊だった。第2大隊第6中隊第3区隊第3班に配属された。全体朝礼などでぼくの班のすぐ左隣に並んでいたのが第7中隊の第1区隊でその区隊長が堤1尉だった。
 高校新卒が大部分の4月入隊はほかの月に比べて飛びぬけてたくさんの人数が入った。ぼくらのときにはほかに第1大隊の第1中隊と第4中隊にも新卒が入っていたから第1航空教育隊全体では1000人ほどもいた。東日本の第2航空教育隊(熊谷基地)にも同じほどの人数がいたはずなので新隊員第144期の同期は約2000人にもなった。しかしそうなると教育隊の教育特技(職種を特技と呼んだ)の隊員だけではとても対応できなかったから区隊長といわず班長といわず他部隊から特技に拘らず大勢が臨時の応援に入った。例えばぼくがいた第6中隊の第3区隊長は防大卒の3等空尉で百里基地(茨城県)第206飛行隊の航空機整備幹部だったし、その下の第3班長つまりぼくの班長は初任空曹課程からの居残りの3等空曹で芦屋基地(福岡県)の高射隊から来ていた。堤さんもまた臨時の区隊長だった。
 ただそれだけのことならそうでしたというだけのことなので、それならわざわざここで書いてみせる必要もなかった。ぼくは新隊員教育を終えると気象観測員になり小松基地へ配属となったがそこに堤1尉がいた。気象隊にではなくて堤さんは小松警務隊長だった。驚いたがこういう偶然はあって不思議はないだろう。ところがそれだけではなかった。こんなことってあるのかとびっくりするよりむしろ怪しく思ったのは幹部候補生学校へ入ると柔道の教官が堤3佐だった。まあそれもまた偶然だろうと言われればそうかもしれない。しかしぼくの行くところ行くところ堤さんが先にいてそれが7年間に3回だ。
 でも堤さんはぼくのことをまったく知らなかったから卒業前の宴会だったと思うが飲めないビールを注がれるままにしこたま飲んで珍しく酔いつぶれもせずいい気持ちになったついでに堤さんにそのことを話した。なにぃ〜そんな縁があったのならなんで柔道を取らなかった、とぼくよりよほど酔っぱらっている堤さんにしかられた。ぼくは格闘技に銃剣格闘(武道としては銃剣道)を選択していたが入校時すでに銃剣道2段だったからで在校中に3段になった。3段といって銃剣道の3段はそんなに強くはない。初心者相手ならたぶん勝つだろうという程度である。それはともかく、あの宴会でぼくが飲み過ぎていつものようにダウンしてしまいいい気持ちになっていなかったとしたら堤さんのことは思い出にはなっていなかったはずであのときの堤さんとの最初で最後の会話は楽しいものだった。


 堤さんは真の柔道家だった。柔道を通して君らを人格者に育てあげると言っていた。建前ではない、堤さんは本気でそう思いそう信じてそれを実行していた。堤さんは生徒のとき規律違反のあった同期生をかばって身代わりのように懲戒処分を受けていたという噂を聞いたことがあったが、なるほど堤さんなら若いころにそういうことがあっても不思議はない、と頷かせる、誠実と信念で一本筋の通った生き方を貫こうとするカッコいい人だった。 2025年2月24日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)




 「おにぎり2個 PLATOON LEADER」を3回にわけて書きましたがなにしろ45年近くも昔のことで懐かしさのあまりあのころに想いを馳せるとどうしても書いておきたくなる人々が主題を押し退けて非常な勢いで迫ってきます。あまりに抗し難くねじ込むような形で市川さんのことは書いてしまいましたがそれができなかったふたりを別稿にしてここに書きました。 2025年2月24日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)



 写真は上が修理隊エンジン小隊のときに来ていた夏の半袖作業服の上衣です。これは正式なものではなく廃棄処分になった常装(いわゆる制服)の夏服(長袖)を半袖に改造したもので隊の補給係が用意してくれました。両襟の階級章(略章)は3等空尉です。下は幹部候補生学校のときの作業服で貸与は2着でしたが、洗濯が間に合わないだろうからもう1着PX(売店)で買っておけ訓練は厳しいぞ、と区隊長に脅されて買ったものです。今見ても新品同様なので結局着なかったような気がします。襟の略章は1等空曹でその上の金色の桜を模したバッジは真鍮製で候補生記章です。名札の3-3は第3中隊第3区隊を表します。
 

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 白い名札は上から新隊員課程、気象観測員基礎課程、初任空曹課程、306飛行隊のときのもので作業服の左胸に縫い付けていました。青い名札は常装用で上から小松気象隊、東京気象隊、修理隊、306飛行隊です。

 帽子は気象隊、BMO(航空機整備幹部基礎課程)、修理隊、306飛行隊のとき被っていたものですが、いずれも一度も洗ったことがなかったので汚れているし変色もあります。


 それから丸いワッペンは冬の防寒ジャンパーの右胸に付けた修理隊と306飛行隊のものです。飛行隊の整備小隊の仕事場は炎天下かでなければ容赦なく風雨風雪に晒されるエプロン(駐機場)です。ワッペンの傷み具合でどんな仕事かがわかります。3という数字のワッペンは銃剣道3段のものです。また階級章は上段左から3等空尉(略章)、2等空尉(略章)、2等空尉、中段右から3等空曹(略章)、3等空曹、下段左から2等空士、1等空士、2等空士(略章)、空士長(略章)です。そして中段右の赤いリボンは入隊から10年の勤続を賞する略綬(いわゆる勲章の略綬ですが本章ははじめからありません)で制服の左胸ポケットの上に付けていました。ぼくの航空自衛隊在籍期間は18歳(2等空士)から29歳(2等空尉)までの11年間でした。 2025年2月24日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)


写真 虎本伸一


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