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おにぎり2個 PLATOON LEADER 中編
小松基地には幹部候補生学校でいっしょだった防大卒(B課程)の3等空尉が303飛行隊、306飛行隊、装備隊、検査隊、修理隊にそれぞれひとりずついた。そしてぼくが2月末にBMO(航空機整備幹部基礎課程)から戻ってしばらくするとひとりまたひとりと次々にエンジン小隊に訪ねて来た。隊員控室に入ってきてぼくの顔を見るなり、小隊長室でここだと聞いてきた、おまえ暇なんだな、と決まって言った。傍にいた森川2曹はその都度嫌な顔をした。小松に来てから知った顔ばかりで話すのははじめてというやつもいたがこんな旧知の仲のような馴れ馴れしい口を利いたのはぼくが知らなくても向こうはぼくを知っていた。というのはぼくが幹部候補生学校でちょっと目立つU課程(一般大卒)だったからかもしれない。借りてきた猫のようにおとなしいぼくがどう目立っていたのかは話が長くなるので・・・、いや、ちがった、ひとりいた。303飛行隊の整備小隊付幹部山本3尉は幹部候補生学校のときから知っていた。顔付きはちょっと見はやんちゃにも見えたが台風一過の秋晴れの青い空のような気持ちのいい男でなんとなく気が合ったからなんでも話した。
ソメイヨシノも花がすっかり散って春が足早に過ぎていく4月半ばのある日の昼休み、市川3尉が訪ねて来た。なにか用があったわけではなく幹部食堂で見かけて久々にちょっと話したくなったので隊に戻る途中に寄ったというのだ。市川さんは小松救難隊のパイロットで特別親しい間柄というわけでもなかったが幹部候補生学校でF課程(航空学生出身の飛行幹部候補生)に入っていた市川さんとぼくは一時期居室が同じだったことがある。市川さんの人となりは誠実でU課程のぼくに親切にしてくれた。
市川さんは33歳だった。33歳の3等空尉はいないことはないがそれがパイロットだとなると、なにをデタラメ書いている、と言われかねない。しかしぼくはデタラメを書いてなどいない。パイロットで33歳の3等空尉は空自創設以来これを書いている今日現在まで市川3尉が唯一の例だと思う。市川さんは「雫石」の当事者だった。
小隊長業務を代行するぼくはほかにもいろんな勤務や業務をあてがわれていた。修理隊の安全係幹部というのがあったが安全係空曹がこまごまとしたことはやってくれたので計画書と報告書を書くだけだった。空士長の3等空曹への昇任試験の勉強も見た。ぼくと整備小隊長の梅都2尉(防大卒)と工作小隊長の西山3尉(防大卒)の三人で教えたがぼくは主に数学と理科を担当した。これでも大学は工学部機械工学科を出ている。月曜から金曜までの夜8時ごろから10時の点呼近くまで整備小隊の隊員控室で教えた。ぼく自身この昇任試験の経験者でもあり一所懸命に教えたが他の小隊の若い隊員とも触れ合えて楽しかった。朝7時に出勤していたから勤務時間は14時間を超えたがちっとも辛くはなかった。それから団司令部の安全班長(303飛行隊のパイロットで3等空佐)や広報班の空曹から頼まれて基地内配布のパンフレットなどにイラストを書いたり航空幕僚監部が出す「飛行と安全」誌への6空団からの投稿記事の挿絵を描いたりしていた。これはもちろん任務ではなくボランティアみたいなもので個人的に頼まれてやっていた。ぼくは意外に絵が上手くて似顔絵が得意だった。それをなぜ安全班長や広報班の空曹が知っていたのかはこれも話が長くなるからここでは書かない。
当直勤務では基地の副直幹部にほぼ毎月就いた。当直室に朝8時半から翌朝の8時半まで24時間詰めたが主な仕事として起床から消灯までの日課を告げるラッパを鳴らした。ラッパはカセットテープの録音で時間になると手動で再生して放送した。国旗掲揚の君が代も同じだ。まさかと思うかもしれないが当時はそうだった。日中はラッパのほかは基地司令、副司令の出迎え見送りがあるだけでこれといった仕事はなかったが消灯後に管理隊の空曹が運転する四輪駆動で基地内外の巡察に出た。基地外というのは数キロ離れたところに重要な施設がいくつかあった。この夜更けのドライブは嫌ではなかった。
仮眠は取れたが上級部隊である航空総隊や中部航空方面隊などから早朝に訓練非常呼集発令の電話が来ると飛び起きてサイレンを鳴らしたり基地内に放送したりと忙しかった。はじめてのときはマニュアルをめくる手も震えそうなほど緊張したが一回やると次からはそうでもなかった。非常呼集はただみんなでいつもより早く出勤するというのではもちろんない。第6航空団は実戦部隊だ。非常呼集時には本来の部隊編成を越えた戦闘配置とでも言うべき特別の編成を組んで稼働状態にあるすべての航空機を格納庫からエプロンに出し列線に並べると戦闘機には整備補給群の隊員が総出でミサイルも機関砲弾も爆弾もすべて実弾を積みパイロットが搭乗して出撃するところまでを極めて短い時間でやった。非常呼集は最低月1回多い月は3回もあった。
副直幹部の上に当直幹部がいたが整備補給群か基地業務群の隊長で課業時間外だけ当直室にきていた。気のいい人なら他部隊の隊長と知り合えてよかったと思ったが威張るだけのとてつもなくつまらない人だったときはうちの隊長でなくてよかったと思った。
基地の当直に就いていたから群の当直には就かなかったがシフト幹部というのが月に1回ほどまわってきた。整備作業は8時から17時までの課業時間内だけおこなうのではない。戦闘機の稼働率を確保するために時間外の夜間にも整備作業をおこなったが、そのために各小隊とメンコン(整備統制班)はシフトを組んでいた。たとえばエンジン小隊では1個分隊をまる1週間夜勤に当てるシフトを組んだ。整備は朝まで掛かることもあったがほとんどは日付が変わる前に終わった。整備幹部も1名が夜勤に就きこれをシフト幹部と呼んだ。整備作業は統制系統で動いていたからなにか事故でも起きない限りこれといってすることもなく日誌のシフト幹部所見欄には特になしと書くのが常だった。夕方からの出勤だった整備員とはちがってシフト幹部は朝からの通常出勤だったうえに翌日は朝から普通に出勤したから午後になるとさすがに辛かった。
ゴールデンウイークも終わり気温があがった日のどこか気怠いような午後、控室で森川2曹と話していると、小隊長、梅能2尉ですよ、と言って窪畠1曹が入ってきた。格納庫を見ると前のエンジン小隊長で今は群本部のQC(品質管理)班長をしている梅能2尉がこっちに背中を見せて立っていた。格納庫には整備用の台にF-4EJのJ79エンジンが3基載せてあるが控室に整備員がひとりもいないのに整備作業をしているのは1基だけだった。ほかにT-33AのJ33エンジン1基が隅に置いてある。そして完成エンジン置き場にはカバーを掛けたJ79エンジンが2基あった。 2025年1月31日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)
続く・・・。
冒頭で市川さんのことを書いた。昭和46年(1971年)7月30日、岩手県雫石町の上空で全日空のボーイング727が訓練飛行中の宮城県松島基地のF-86Fと衝突し双方が墜落して全日空機の乗員乗客全員が死亡した。F-86Fを操縦していた訓練生が22歳の市川さんだった。
市川さんは昭和53年(1978年)に裁判で無罪が確定するまでのあいだ身分は事故時の飛行幹部候補生2等空曹のまま留め置かれていたらしく1等空曹に昇進して幹部候補生学校に入ったのが1980年になったことでぼくと在校時期が重なった。
幹部候補生学校でF課程の市川さんとU課程のぼくが一時期同じ居室だったというのは航空自衛隊の部隊をまったく知らない一般大卒のU課程が部隊経験豊富なF課程やI課程(部内選抜)の候補生と親しく交流し少しでも部隊がどんなものかを知ることができるようにと同じ居室で寝起きする期間が設けられていたからで市川さんとぼくは同じ3中隊だった。F課程はB課程(防大卒)と入れ替わるように10月に入校したから11月から1月にかけて同じ部屋になったが市川さんの方から声をかけてきてくれた。
市川さんが「雫石」の当事者だということをぼくが知ったのはF課程が入校してきた日にF課程の区隊長(1等空尉で市川さんとは航空学生が同期だったのかもしれない)がどこか誇らしげにあるいは憶えておけというように言った、中にひねた(若くない)のがひとりいただろう、雫石の当事者だ、という言葉だった。「雫石」当時ぼくは高校2年でよく憶えていたからすぐに意味がわかりビックリした。歴史上の人物に会ったような気がした。
市川さんがもう戦闘機には乗れなくなったにもかかわらず退職せずに救難機パイロットの道を選んだのはなぜだったのかは知らない。市川さんとは幹部候補生学校でも小松基地でも「雫石」のことを話題にしたことは一度もない。避けていたのではない、必要がなかった。 虎本伸一(メキラ・シンエモン)
市川さんのことはここで書くのは適当かどうか迷ったがあのころの大切な思い出だったから多少無理があっても書くことにした。主題が霞んでしまうかもしれないことは承知のうえだ。それで長くなってしまったこともあってこの続きは次回にした。 虎本伸一(メキラ・シンエモン)
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