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邑井さんの草取り

 邑井さんがこの町内に引っ越してきてかれこれもう三年になるだろうか。ぼくが町会長の任期を終えて数か月後のことだった。邑井さんとぼくの家は同じ並びだがあいだには畑と家が六軒あるからしょっちゅう顔を見るということはない。ここは金沢市の郊外で元は農地だったから住宅に混じってまだ畑がすこし残っていた。邑井さんとはじめて話したのは引っ越してきて半年ぐらいのころでゴミステーションの当番の説明に訪問したときだった。ぼくは町会長を辞めたあとも我が家がゴミを出しているゴミステーションの当番表だけは作っていたが邑井さんもまた同じゴミステーションにゴミを出していた。邑井さんの年格好はぼくと同じで人当たりの良い気むずかしいところのない人に見えた。ウォーキングに出たときなど家の前を通ると邑井さんが外に出ていることがあってちょっと挨拶をする。いまお帰りですか。ええ。いやあずいぶん長い時間歩くんですね。なあに二時間ほどですよ。わたしらはせいぜい一時間です、いやご苦労様です。どうも。たとえば行きに会って帰りにも会った日などはこんな感じだった。この程度だから付き合いがあるとはほとんど言えない。邑井さんがまだ仕事をしている人なのかもう隠居の身なのかもわからなかったがどこかへ通勤しているという風ではなかった。ずっと家にいるようで何日も留守らしいこともある。

 今日ウォーキングから戻って来ると邑井さんが歩道の草取りをしている。ぼくらの家の前の道は割と道幅が広くセンターラインこそないものの両側に歩道が付いていた。邑井さんはその歩道の縁石際に生える短い草を根っこから丁寧に取っていたのだ。それが自分の家の前というのならきれい好きだなあるいはきちっとした人だなで済ませられたが邑井さんが草取りをしていたのは隣の家の前だった。自分の家の前の草取りをお隣さんにされてはまるで汚くしたままさぼっているのを咎められているみたいにも感じてかなりのんきな人でもないかぎりあまりいい気はしないものだが邑井さんがそういう人ではないことを周囲がみんな知っているようだった。実はこの光景をぼくは以前よりたびたび遠くから目撃していた。邑井さんは道の向こう側の草取りまでしていたがぼくの家は邑井さんが出張してくるにはすこし距離がありすぎたしその現場に居合わせたのは今日がはじめてだった。

 おはようございます。立ち止まって邑井さんに声を掛けた。おはようございます、雨が止みましたね。邑井さんはもうさっきから気付いていたようでぼくが言うのとほぼ同時にしゃがんだまま顔だけこっちへ向けた。草取りですか精が出ますね、でもこんなところまで、邑井さんの家の前ではありませんが・・・。ぼくは前から気掛かりだったことを思い切って訊いてみた。すると邑井さんは思いもよらないことを言った。心が荒れているので草を取っているんです。心が荒れている。そうなんです。心が荒れているようには見えませんが。そうですか、荒れているんですよ。いや、立派なことをされていると思いますが・・・。こうしていると心が落ち着きましてね、だから草取りは自分のためにやっているんですよ、今日も野田山へ行ってこられたんですか。それ以上の会話をしてはいけない、いや本人は構わなかったかもしれないが、ぼくはできない気がした。ええそうです、どうもご苦労様です。いいえどうも。邑井さんは作業に戻りぼくは再び歩き出した。

 ぼくは家の方に歩きながら邑井さんの言葉を考えた。心が荒れているか・・・、穏やかにしているように見えていろいろあるのかな人はみなおなじか。家に着きそのまま庭に回ると女房がいて、ヨボ、と呼ぶ。その声で邑井さんのことはぼくの頭から消えていた。 2024年9月2日 とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)


 ヨボは韓国で夫婦が相手に呼びかけるときの言葉で、邑井さんはもちろん仮名です。





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