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朝顔やつるべ取られてもらひ水 あっ、こぼしちゃった

 梅雨空に朝顔がかわいそうです。せっかく花が咲いても雨に濡れてすぐに萎れてしまいます。雨が止めばあんまり暑くて今度は葉っぱまでが萎れます。見かねた女房が水をやるとたちまち葉はピンとするから不思議です。我家の朝顔は5月の中ごろに家から1キロほどのところにあるJA金沢の直売店ほがらか村で一株100円の苗を見つけてよっつほど買ってきたものです。前々から女房が欲しがっていました。庭ではなくて軒下に置いたプランターに植えています。


 おととしの夏です、女房が朝顔を観たいと言いだしたから秋になってぼくが知り合いから種をわけてもらって春になるのを待って女房が庭に蒔きました。でも芽がひとつも出ないまま気が付けば春は過ぎて夏が来てしまったらしく中高生の制服は白のシャツスタイルに衣替えしていました。小学生のころやりましたよね「朝顔日記」なるものを、だから朝顔ぐらい簡単だと思っていたのにだめだったんです。種を鳥が掘り返して食べたということもなさそうで、ならば地中で腐ったなんてことがあるとも思えず、いったいどんな蒔き方をしたのかと女房を追及すれば無用の夫婦喧嘩を生起させるだけだからそれは不問にして、とにかく今年は確実にと思い苗を買ってきました。

 ほがらか村から買って来た朝顔の苗はとても小さくてなかなか蔓が伸びなかったので、どうりで安かったわけだと思っていたら、梅雨入りちょっと前から伸びはじめて今は屋根まで届いています。今月に入って最初の花が咲きこのごろは毎朝いくつも咲いてまだまだこれからです。でも葉も花も全体のバランスがよくありません。朝顔も剪定がいるそうですがやり方もしらないしもう遅いでしょうからなにもしません。今年はテストで好きに生えさせておいて来年うまくやろうという魂胆です。

 その代わりではありませんがぼくにはちょっと思ったことがありました。「朝顔につるべ取られてもらひ水」は本当のことなのか・・・とね。
 日本人ならだれでも知っている加賀の千代女の句です。千代さんは江戸元禄の加賀松任(ずっと松任市でしたが今は白山市)に生まれた女流俳人です。松任では朝顔がシンボルならお年寄りはもちろんこどもまでこぞって俳句をやっています。ところでこの「朝顔につるべ取られてもらひ水」というよく知られている句には「朝顔やつるべ取られてもらひ水」という別バージョンが、それも本人が書いたものが存在します。白山市のホームページはこの「朝顔やつるべ取られてもらひ水」を載せています。見た人は、あれっ、そうだっけ、ときっと思います。このふたつのバージョンのどこがちがうかわかりますよね。"朝顔に"と"朝顔や"です。
 ちがいはたった一文字ですが"に"と"や"では意味がまるでちがってきます。まず、"朝顔に"の句はそのまま読めばよくて、朝起きて水を汲みに井戸へ行くと花の咲いた朝顔の蔓が釣瓶に絡みついている、このまま水を汲めば蔓が切れて花が萎んでしまう、それでは朝顔がかわいそうだから隣家に行って水をわけてもらった、という解釈になります。夏の日の早朝まだ涼しい時間の一幕の描写、なのかと思うと、朝顔は秋の季語なんだそうです。朝顔が咲くのは旧暦では秋でした。それはともかく、わかりやすく千代さんの人柄も知れていいなと思います。ただし朝顔そのものは詠まれていないのともらい水にどこかわざとらしさを感じます。
 一方の"朝顔や"の句は"や"が感動を表す俳句で言う切れ字なので"朝顔"と"つるべ取られて"は結びつかないことになります。つまり朝顔がつるべを取ったとは言い切れなくてほかのなにかが釣瓶を取ったかもしれないわけです。といってそれにトンボなどの昆虫やスズメなどの小鳥を想像するのは難しく状況から言って朝顔の蔓以外は考えられないのですが、あえて別のなにかにするとすれば例えば、あそこで朝顔が咲いているああきれい、水汲みに井戸へ行ったら先にだれかが来ていて釣瓶を取られちゃった、待っているのもつまらないからご近所の仲良しのところでお水をわけてもらおっと、というふうになります。朝顔をきちっと詠んでいるしもらい水もこの方が自然な気がします。しかし、こういう想像が許されるのかという疑問があり、"朝顔に"の方がどこかわざとらしさがあったとしてもわかりやすくて一般受けするでしょうね。

 こんな普通に考えるようなことをぼくも考えたのですが、ほかにも人はきっと見向きもしないだろうことを考えました。早朝の水汲みで朝顔に釣瓶を取られるという状況は成立するのかということです。
 まず、朝顔はどこに生えていたのか。蔓が釣瓶を取ったのなら井戸端になるでしょう。井戸には高さがあって釣瓶は井戸の屋根に付けた滑車から綱で吊るして井戸の木枠か竹製の蓋の上に置いてあります。すると朝顔の蔓が釣瓶の綱に絡まるほどまで伸びるなら巻きつくことができる紐か棒のような掛かりになるものがいります。でもそんなものが井戸端にあるとは到底思えません。邪魔でしょうそんなものは井戸の周りにあったりしたら。つまり井戸端に朝顔を植えたりはしないでしょう。朝顔を植えるなら井戸から離れたところでしょう。でもそれなら蔓は釣瓶にはきっと届かない。植えたのではなくて自生していたという可能性は園芸種の野生化がないとは言えないと思いますが人の踏みならす井戸端では背の低い草ならいざ知らず朝顔にそれはちょっと考えにくいでしょう。ただし、朝顔が鉢植えだったのなら何かの理由で前日から井戸のそばに置きっぱなしになっていたということにすれば話は通るかもしれません。
 次に、朝顔の蔓はいつ伸びるのでしょうか。朝顔の蔓が夜のうちに伸びないのならこの俳句は成立しません。ぼくは月刊漫画雑誌「ガロ」をもう中学生のころには近所の大学生の影響で読んでいてつげ義春のファンでしたが「李さん一家」という作品に、朝目を覚ますと窓から朝顔のツルがそっとのぞいている、というコマがありました。しかし漫画ですからね、これだけでただちに朝顔の蔓は夜のうちにずいぶん伸びるものだとは認められません。ではその類の研究はというと朝顔の蔓は一日に何センチ伸びるというのはあっても伸びるのが一日のうちのどの時間帯かという研究はないようです。ただ一般的に植物は夜の方が成長するそうです。そこでうちの朝顔はというと蔓が伸びるのが昼か夜か、感覚的にですが、やっぱりどっちとも言えないようです。でも一昼夜では結構伸びているようなので蔓が前の日の夕方に井戸の上部にまで来ていれば翌朝釣瓶の綱に届くことはありそうです。もっとも朝顔の品種は多くしかも300年前の朝顔を考えるなら参考にもならないかもしれません。
 そこで一応の結論ですが、朝顔は井戸端に置かれた鉢植えで蔓が夕方井戸の上部まで来ているのなら翌朝釣瓶の綱に届く可能性はありこの条件でならこの句は成立すると言える、となります。

 朝起きて水汲みに行くと井戸端に置いてある鉢植えの朝顔の花がとってもきれい、あれっ、蔓が釣瓶の綱に巻きついている、このまま水を汲めば蔓は切れて花が萎れてしまう、それでは朝顔がかわいそう、どうしよう、お隣でお水をわけてもらえた、よかった、あっ、こぼしちゃった、という読み方はどうですか。これなら"朝顔に"でも"朝顔や"でもなんとかいけそうです。

 ぼくは千代さんははじめ"朝顔や"と詠んだんじゃなかったのかなと思います。それをなにかわけがあって"朝顔に"に変えた。あるいはそのほうがわかりやすくおもしろいと思ったんでしょう。でもそれでは自分の大好きな朝顔がどこかへ行ってしまうと考えてあとで"朝顔や"に戻した。ところが世間はわかりやすくストレートに心にはいってくる"朝顔に"の方を好んだからそれが広まってしまった。そのまま300年後の現代へ。そういう気がします。


 井戸は千代さんちの井戸だったんでしょうね。もし長屋の共同井戸だったら千代さんが助けた朝顔はほかの人によって蔓が無惨に引きちぎられていたでしょう。でもみんなが千代さんのように優しい人たちだったら隣の長屋にもらい水の順番を待つ行列ができてしまいます。お隣さんも拒まなかった。そういう光景を想像するのもいいものです。整理券まで想像してはいけません。 2024年7月7日とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)






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