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同級生 A GIRL STUDENT
どうせきらいなものなら何をやっても同じことだと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起こった失策だった。(夏目漱石「坊ちゃん」岩波文庫)
坊ちゃんが親譲りの無鉄砲で入学した物理学校とは東京物理学校のことで理工系の研究者や教員を養成した専門学校だった。入学は無試験だったが卒業は厳しく入学者の10%ほどしか卒業できなかったというから坊ちゃんは本当は頗る優秀だった。一方、漱石が「坊ちゃん」を世に出した翌年、神田に技術者養成のための専門学校が創設された。電機学校と言ったが当初は夜間だけの授業だったという。戦後、東京物理学校は東京理科大学になり理科大と呼ばれているが、電機学校もまた東京電機大学となって電大あるいは電機大と呼ばれている。
陸上部の練習に失望し部活に出なくなると次第に学校そのものが嫌になって毎日ただ通っているだけだった高校2年のぼくは家でも勉強しなかった。二学期になると国語の教師で若禿の担任から、おまえこのままだと落第するぞ3年になれない、と警告された。それから間もなくだったと思う。二学期の途中からクラスはそのままに大学受験に備えて理系と文系というふたつのグループにわけた授業になった。ぼくは前者つまり文系学部志望のグループに入れられた。
警告されて改心したということもなかったが3年生になった。3年のクラスは2年のときの文系理系をさらに国立大と私立大に分けてクラスが編成されていてぼくは私立大文系に入っていたが志望校は防衛大学校だった。防大はそのころ国立二期校理系相当と言われていたから私立大文系のクラスにいてはその受験は無謀というものだった。
それならどうして2年の時点で文系のグループに入れられていたのかと言えば3年になってから志望校を変えていたわけではない。2年のときから防大だった。では先生がぼくの理系希望を知らなかったのかというとそんなわけはない、グループわけの前にみんなに希望を申告させていた。それはしかし一応聞いておこうかということだったらしい。2年のときの文理のグループわけの根拠はあるいは基準は成績に主に数学の成績にあったようなのだ。だぶん人数調整もあったのだろう数学ができない者は国語もできなくても希望に関係なく文系に入れられていた。つまりぼくのことで、おまえは文系だ、と担任から告げられたとき、これから頑張りますから理系になりませんかと再考を願い出たが一顧だされなかった。先生は入りたい大学ではなくて入れる大学を考えろという。理屈はそうでも心には異なる原理が働く。ぼくは心に従った。
ぼくが3年になっても志望校が防大のままだったのは、こんなことで自分の人生が決められてたまるものか、と思ったからかというとそういう気概があったわけでもなかった。ぼくはそんなに勇ましくはない。ただ、あきらめるのが嫌だった。この期に及んでだったが、このままなにもしないでやりたいことをあきらめたくはなかったのだ。小さいころから戦闘機のパイロットになるんだと思っていた。高校生にもなって現実を見据えず将来のことはなにも考えていないかのようにもう叶わないことが決定的になった小さいころの思いに固執するなど賢いこととはとても言えないが、ぼくが賢くないのは生まれつきで、そこまでバカだったのかと言われればそこまでバカだった。往生際が悪いのはぼくの唯一の取り柄である。
3年生になってしばらくしてからだったと思う。いや夏休みの前か。まあどっちでもいい。志望校を書いて出せと担任が紙を配った。みんなは人に見られないようにと顔を伏せて腕で隠すようにしてこそこそ書いていたが、ぼくは背筋を伸ばして、防衛大学校、と迷わず大きな字で一気に書いた。それを後ろの席の女の子に見られた。えっ、とその子が声をあげたから振り向くと、ほんとに、という顔でこっちを見て立っていた。真面目に書かないと叱られるよというのだ。本気だよと言ったかどうか・・・、だれにも言っちゃだめだからね、と頼むとその子はうんうんと頷いた。そして、勉強はどうするつもりなのよ、と訊くから、授業がない科目は独学でやるしかないな、と答えたがその子は呆れていたかもしれない。ぼくは後に引けなくなったような気がした。
3年のときの担任は年格好も背格好も親父と同じような世界史を教えている先生だったが志望校の面接のとき、防大か・・・と言ったなりしばらくうつむいていたが不意に顔をあげると、ほかは受けないのか、と息を一気に吐き出すように言った。はい、と一言で簡潔に答えると先生は、わかった、とだけ言った。しかたがない生徒だと思われたのかもしれない。
その年の10月に防大を受けた。そして落ちた。自衛隊のパイロットを目指すなら受験がずっと楽な航空学生になるという選択肢もあったが、防大にこだわって航空学生はまったく考慮しなかった。今考えると往生際の悪さが祟った失策だったのかと言うとあるいはその逆で往生際の悪さが幸いした良策だったかもしれなかった。このふたつとは別に一般大を出て幹部候補生学校に入ってパイロットを目指すという経路もあったがそれは、あとで話すが、まったく思考の外だった。
高校を卒業して三年もたってから東京にある私立大の工学部機械工学科に入った。やるだけやったうえで防大を断念してそのあと三年も浪人したのかというと、そうと言えばそうだがそうではないと言えばそうではなかった。どうしていたのかというと、航空自衛隊に入っていた。それもすぐだった。卒業式から四日後の3月12日、ぼくは山口県防府市の第一航空教育隊へ第144期の新隊員として入隊した。同級生のみんながぼくの入隊を知ることはなかった。学校が出したその年の卒業生の進学就職先一覧はぼくの欄だけが好意か体裁かは知らないが空白になっていた。
そのころの航空自衛官の採用は今とはいろいろちがった。新隊員で入隊すると階級は最下位の二等空士(Airman 3rd Class)からはじめるが、空士は任期制で任期毎に契約の更新が必要な仮採用だった。それは陸上でも海上でも同じだったが航空自衛隊は1任期目が三年でそれ以降2任期目からは二年である。任期が満了して辞めたければ契約を更新しなければよかった。空士のあいだ昇任試験はなく決められた期間が過ぎると上にあがり最後は空士長(Airman 1st Class)になった。空士長になって一年するとその上の下士官である三等空曹(Staff Sergeant)に上がれるが昇任試験があった。合格して三等空曹に上がると本採用である。半年に一回のこの昇任試験は何度でも受けることができたが契約更新には限度があっていつまでも三等空曹に上がれないと契約更新は拒否された。拒否されるところまで行く前にほとんどすべての者が昇任試験を通った。また昇任試験は成績が満点でも一回目で昇任するとは限らなかった。国家資格を持つなどの特別な場合を除いてどんなに優秀な者でも二回は待たされた。
入隊から一週間にもならない18日は自衛隊の給料日でいろいろ天引きされて手取り1万円と少しをもらった。生まれて初めて自分で稼いだお金だったからその1万円を両親に送った。こう見えてぼくも意外と孝行息子だ、半分だけど、というのは区隊長だったか先任空曹だったか忘れたが家に送金したい者は申し出ろと言うからぼくはそれはいいことを聞いたと思ってそうした。ちょっとだけ大人になったような気分だった。送金はどうやったのか忘れた。給料は管理されていて小遣いとして現金が月に2000円だけ渡されていた。
大学に合格したときは空士長の二年目に入っていたが1任期目の三年が満了となる3月11日が迫っていた。それで大学合格を機に自衛隊は退職したのかというと契約を更新して自衛隊に残った。任期満了で一時金の40万円が出たが大学の入学金がちょうどその額だったのでそれに当てた。しかし勤務があるだろうによく大学に通えたね、自衛隊ってそんなに融通の利くとこだったのか、と思うかもしれないが、ぼくは命令で大学に入ったわけではない、大学に通えるのは勤務時間外だけである。ぼくは工学部第二部の学生だった。つまり夜間部に通った。大学生とは名ばかりだった。
そんなに大卒の学歴が欲しかったのかというとそうだった。それにはそれなりの理由はあった。実は入隊した年にも防大に挑戦して落ちていた。その次の年も願書は出したが試験を受けなかった。三年目の年は出願していない。ぼくの気持ちはもう萎えていたが一般隊員の境涯もまんざらではなかったのだ。それが、はじめは満足していた勤務や生活がそのうちどこか物足りなくなってきてこのままでいいのかなと思うようになった。いずれ近く三等空曹になるだろうがその先は、と考えたらもっと上を目指さないといけないという気がした。士官である幹部自衛官になろうと思った。
防大の受験資格はまだあったが正直今さらだった。部内選抜の幹部候補生の試験を受けられるのは三等空曹になって四年か二等空曹になってからで、誕生日が過ぎて20歳になっていたが早くて6年も先だった。それなら一般大を出て幹部候補生学校に入ろうかと考えた。部外幹部候補生である。でも自衛隊はやめたくなかった。一度辞めてから入りなおすなどぼくにはできない。大学は夜間部に通うしかなかった。いずれにしても始動するなら急がないといけない。もう10月だった。すぐに受験校を決めて願書を出し年明けに受験し春に入学できれば最短で4年後に部外幹部候補生を受験できた。部外幹部候補生になりたかった理由は別にもうひとつあった。一度はあきらめたアレが実現するかもしれなかった。
大学はどうせなら機械工学科に入りたかった。だが高校卒業後二年半が過ぎていたし防大受験の勉強は前年までにやめていた。今から勉強を再開してもどうだろうか、夜間部でも受験は簡単ではないはずだ、と思った。それに法学部や経済学部などとはちがって工学部に夜間部がある大学は少なかったし基地から通うことができるという条件も加わった。つまり受験の対象にできる大学はほんのわずかしかなかった。それなら文系でもいいじゃないか高校では文系のクラスに収容されていたんだしとは考えなかった。どこまでも理系に拘った。ぼくは往生際が悪かったのではなくて柔軟に考えられなかったのかもしれない。あるいはその両方だった。
東京理科大学はちょっと行きたいと思ったことのある大学だった。「坊っちゃん」の影響と言えないことはない。理科大には夜間部があった。ただし理学部だった。神楽坂という場所は通うにはよかった。ぼくは刹那に理科大を受験したいと思った。でも理科大は難関校だ、夜間部もかなり難しそうだった。それに運よく入れても理科大は物理学校時代からの継承で卒業するのが大変らしかった。理学部でもあったし無理かなと迷った。
理系の大学は、大学によって多少の違いはあっても基本的に、1年生から2年生に上がるのに厳しい条件があって1年生で取っておくべき単位をすべて取得していないと2年生には進級できず1年生にはもう一年だけしか留まることができなくて二年かけても必要な単位が取れなければ即除籍となった。また2年生に進級してもその先で留年するのは理系では珍しくないことだった。それは夜間部も同じだったし卒業できないで去る人の割合は夜間部の方がずっと高かった。夜間部の学生はほとんどが仕事に就いていて結婚して家庭を持っている者も少なくない。ちょっと考えればわかることだが、学業を仕事や家庭に優先させることなどまずできない相談だったから常に卒業を断念せざるをえない境遇にあった。
ぼくには時間が無かった。大卒の部外幹部候補生にも当然ながら年齢制限があって26歳未満だったからぼくに余裕は一年しかなかった。部外幹部候補生になろうと考えたのは少しでも早く幹部自衛官になりたかったからだが具体的に行動を起こしはじめてからはもうひとつの理由、一度はあきらめた戦闘機パイロットになれるかもしれない、という思いがだんだん強くなってきて、むしろこっちが主な目的のようになっていた。大卒の部外幹部候補生の募集には一般と操縦要員があって操縦要員とは航空機の操縦者つまりパイロットのことだった。ぼくはそれまでそのことを知らなかった。部外幹部候補生を受けようと思って募集要項を見てはじめて知った。往生際が悪かったゆえの失策だったかもしれない。もし高校2年の時点で知っていれば私立の文系でもいいから大学に入って幹部候補生になるための準備をゆっくり考えていたかもしれない。部外幹部候補生はなにも理系の卒業である必要はなかった。いや、知っていても航空学生と同じようにきっと無視していただろう。若いころは機械が好きだったし仏像は観るだけで満足していたから高校生のぼくには自分が文学部に通っているところなど想像できなかったと思う。ちなみに部内選抜には操縦要員などもちろんなかった。
ぼくが工学部に第二部があり基地から通うことができて確実に四年で卒業できそうな大学を探してその中から選んで入学願書を送った大学は東京電機大学だった。
もうひとつ別に重要なやるべきことがあった。大学に合格してもそれで入学できるわけではなかった。ぼくは気象隊の気象観測員だった。気象観測員は飛行場で勤務したがそのときぼくは石川県の小松基地にいた。つまり大学の夜間部へ通うなら東京近郊にある通学可能な部隊へ転属させてもらわないといけなかった。11月のはじめだっただろうか、電機大に願書を出すのと同時に、観測班長を通して隊長に埼玉県の入間基地へ転属させてほしいと願い出た。
すぐに隊長室に呼ばれた。小さな部隊でも隊長に会うことはあまりない。隊長の前で緊張して立っているぼくに隊長は、転属は任せておけ心配するな、と言ってくれた。そして、ところで大学はどこにするんだ、と隊長は訊いてきた。理科大か電機大を受けようと思います、と答えると、本命はどっちだ、とまた訊くから、理科大です、と答えた。すると、おれの後輩になるか、と言って隊長は笑った。
隊長は40代前半の巨漢で二等空佐だったが理科大を出ていた。ぼくは隊長が理科大だとはじめから知っていた。理科大を受けると言ったのはわざとではない。不意をつかれてつい口から出てしまったのだがまだ心の中にそういう気持ちが残っていた証拠だった。しかしこれで決心がついた。理科大にも願書を送った。
年明け早々に電大の入学試験を受けて手応えはあった。結果は理科大の入試の前に出た。合格だった。理科大はどうしようかと迷ったが試験を受けた。電大に合格して気が楽だったが言い換えると気が抜けていた。合格発表は電大もそうだったが大学まで見に行った。夜行バスで行き帰りは国鉄で東海道新幹線を米原で乗り換えた。咲かなくてもかまわない桜が散ってぼくは悲しかった。もし試験がよくできて合格していたら理科大に入っていただろう。そしてきっと除籍になっていた。東京から帰った翌日隊長に報告すると、そうか、もう片方が合格ならそれでいい、と言って二三度頷いていた。
一方の転属の方はというとまだ結論が出ていなかった。もう決まっていたらしいが自衛隊というところはどんなことでも命令が出るまでなにがあっても絶対に明かしてはくれない。隊長に報告した数日後、転属が決まったと知らされた。それが隊長から直接ではなかったような気がする。勤務中に観測室で観測班長から言われたのかもしれなかった。隊長にお礼を言ったはずだがなんと言ったのか憶えていない。
ぼくの転属先は入間基地ではなく桧町基地だった。桧町というのは赤坂6丁目にあって六本木の交差点から近かった。そこになにがあったのかというと防衛庁の庁舎があった。つまり桧町基地は防衛庁敷地内の航空自衛隊の基地だった。桧町基地の東京気象隊は航空幕僚監部と統合幕僚会議と防衛庁内局に気象情報を提供していた。ぼくはそんな部隊があることを知らなかったから驚いていたが嬉しかったのは入間より格段に通学が楽だったことで神田錦町の大学までは基地から10分ほど歩いて地下鉄千代田線の乃木坂駅へ行き15分ほど乗って新御茶ノ水駅で降りて小川町の出口から地上に出ると電大は近かった。それにしても、大学に合格して転属がきまりそれがいい場所だなんて都合が良過ぎてこんなにうまくいっていいのかなと思った。
やはりこの世にうまい話などないものだ。自衛隊と大学の二重生活は思ったより大変でかなりきつかったが桧町基地の内務班は狭くて航空団より環境はよほど劣悪だった。はじめのころは生活の変化にも環境の変化にも付いて行けなくて自律神経失調症になった。夜中に40度を越える高熱を出して三宿の自衛隊中央病院に緊急入院したこともあった。また夜勤があって受講できない日が月に何日もあった。でも最大の問題は人間関係だった。それについて今は話さない。いろいろありすぎた。書けばこの記事の何倍もの字数になる。
ぼくは東京電機大学工学部第二部機械工学科を留年することもなく卒業までなんとか最短でこぎつけ4年生の秋に航空自衛隊一般幹部候補生第70期U課程を操縦要員で受験して合格した。現役の自衛官だったから採点が甘かったのかもしれない。空士長から三等空曹に昇任してまだ三年だったから部内選抜の受験資格を得られるのは一年先だった。合格したことは隊長から告げられた。もちろん行くよな、と隊長は、一応確認するんだが、と前置きしてから言った。はい、ありがとうございます、と、はりきって答えた。そのあとしばらくしてぼくに一等空曹に特別昇任させて幹部候補生学校へ入校させるという個命が出た。昭和55年4月1日、ぼくはこの命令書を提示して奈良市法華寺町にある航空自衛隊奈良基地の衛門を入った。金沢桜丘高校を卒業して七年、24歳の春はちょっと遅目の桜が咲いた。
このときの命令書の正確な文面は忘れた。大切にとっておいたのだがいつの間にかどこへしまったのかわからなくなっていた。よく探せば押し入れにあるなにかの箱の中からでも出てくるかもしれない。 2024年5月19日とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)
いつにない長い記事で読むのも疲れたでしょう。ご苦労様でした。これでも極力短くしたんですよ。ところで、タイトルの「同級生 A
GIRL STUDENT」とはなんのことかと気になりましたよね。まあコーヒーでも入れて一休みしてから、この下を読んでみてください。そんなことどうでもいいという方こそ、ぜひとも。
高校2年のとき同じクラスの女の子を好きになってその気持ちを告白したことがありました。それが、その告白が本人に直接ではなくて成り行きでその子のお母さんを通してになってしまったんです。と聞けば、なんだって、どうしてそんなことになった、成り行きってなにがあった、それでその子とはどうなったのか、とますます気になったと思います。明かしても別に気まずいようなことはないし半世紀以上も前のことでその子は今どうしているのかも知らず書いてさしさわりがあるようなことはなにもないのですが・・・、でもやっぱり止めときます。書けば切なくなってしまう思い出でした。なるほどでもそんな話は本文とはなんの関係もないんじゃないの、と思っていますよね。そうなんですが、そうでもないんです。
いつもタイトルをどうするかで悩みます。今回の記事は4月にアップした「親友 TWO RETIRED MEN」の続編のようなものですが「親友 TWO RETIRED
MEN」は親友との関係を中心に書いていてぼく自身のことはあちこち穴ぼこだらけだったからその穴を埋めておきたくなってこの記事を書こうと思い立ちました。ここに書いたことは高校の同級生で「親友 TWO RETIRED MEN」の親友N君もよく知らなかったことで、近ごろの親友で仏像仲間のミキオ君には今まで話したことはなかったから、ぼくの学歴をきっとミキオ君は誤解していたはずだと思い、この記事はミキオ君への告白という意味合いもあると考えてはじめは「告白」というタイトルにしました。でもすぐに、告白か・・・なんかシックリこない、どこかちょっとちがう、と思えてきて、告白と言えば同級生の女の子に告白したことがあった、そうだタイトルは「同級生 A
GIRL STUDENT」にしようと決めたんです。どんな理屈なんだと思ったことでしょうね、脈絡が見えないと。
その同級生への告白は大学ノートを破った小さな紙きれに乱れた字で走り書きして古い日記帳のページの間に挟んであった追憶でした。なにをやってもなにひとつ噛み合わなくて悶々として鬱積した高校時代を思い起こすとき、それがどんなことであってもいつもぼくの意思に関係なくその告白をいっしょに思い出しその子の顔がよみがえります。このタイトルは高校生のころのぼくの気分でした。 2024年5月29日とらもとしんいち(メキラ・シンエモン)
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