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佐保路シリーズII

きみ、その足どうしたの  大仏殿裏の若い鹿

 戒壇院の千手堂から大仏殿の裏を通って二月堂へ行く途中、二月堂裏参道の少し手前にあるベンチで休憩しました。若葉の茂る木立の向こうに二月堂の屋根が漸く見えています。付近に修旅の学生の姿はなく遠足の園児も見えません。10メートルほど先で鹿の小さな群れが静かに草を食んでいます。なんとなく寂しい風景でした。

 背負っていたリュックを下しペットボトルの水を飲んで一息ついたあと、家から持ってきた文庫サイズの50年も昔のガイドブック、保育社のカラーブックス「佐保路の寺」をリュックから出しました。それをミキオ君に見せようと顔をあげると一頭の鹿が近くに来ています。角はないようだけどメスかな。まだ若い鹿でした。よし、それなら写真を撮ってやろうか。鹿の写真は点景として入れるほかはほとんど撮らないのに今日は特別です。するとますます近づいて来てぼくのすぐ目の前で止まると黒曜石の黒い玉のような目でじっとこっちを見ています。その目はなにかを訴えているようでした。食べ物がほしいのかな、悪いけど鹿せんべいはないよ。手を広げてみせてもこっちをじっと見ています。よわったな、チョコパイは般若寺で食べちゃったしほかに食べ物は持っていないし、ミキオ君のチューインガムじゃなぁ・・・、もし食べ物を持っていてもあげていいものかどうか・・・。だから、なにもないの、ごめんね。

 若い鹿はぼくから目をそらすと首を伸ばしてリュックの上に置いていたカラーブックスに鼻を付けました。匂いを嗅いでいる。カラーブックスはリュックのポケットにチョコパイと一緒に入れてあったから匂いが付いたんだろうか。そのうち若い鹿は食べ物じゃないとわかったのか鼻を離したので、ぼくも鼻を近づけてみますがなにも匂いませでした。今日は風邪をひいていないから鼻は詰まっていない。人にはわからなくても鹿にはわかる匂いなんだろうか。若い鹿は横を向いていますがなおもそばにいてここを去る気はないみたいです。どうしてやったらいいのかな。しばらく見つめていると若い鹿はわかってくれたのか諦めたのか、首をこっちに向けておじぎでもするように頭をちょっと下げると、ゆっくりと元来た方へ向きを変え戻っていきました。なんだかすっきりしない気分でした。
 再び「佐保路の寺」を手にとってミキオ君に見せたいところはどこだったかとペラペラとページを捲り探しますが、なんだかどうでもよくなってしまって、ピタッ、本を閉じてリュックにしまいました。


 奈良から帰った次の日です。家で今回の小旅行で撮った写真を見ていました。いつものように要らぬ写真の多いこと。デジタルカメラはフイルムカメラとちがって枚数を気にせずとにかくシャッターを切ります。150枚ほど撮っていました。下手くそほどたくさん撮るみたいです。拙い写真でもあとから見ればなにかを見つけることがあるし、なにかを想うこともあります。だから要らない写真もそう簡単には削除しません。
 そうやって次々に見ていってあの若い鹿の写真になりました。きみ、その足どうしたの。若い鹿の右前足の異変に気付きました。実は上の写真はトリミングしたもので元の写真には全身が写っていました。右の前足の蹄が妙に深く内側に曲がっているみたいです。よく見れば右前足の膝から下が不自然な角度で付いているようにも見えます。ほんとに、きみ、その足どうしたの。

 写真を撮ったときは気付いていませんでした。痛がっている様子はなかったし、気付いていないということは普通に歩いていたはずです。前に右足にケガをしたことがあって、そのケガは治って足は曲がってしまったけどさほど不自由はない。あるいは生まれたときから右足が曲がっていたけど普通に成長してきた。どっちにしてもかわいそうに・・・。でも生きていくのに問題はなさそうだし・・・。いや待てよ、歩くのはいいとして走るのはどうなんだろう、この前足ではうまく走れないんじゃ・・・。写真の若い鹿はあの時と同じ目でじっとぼくを見つめています。(2022年6月23日 メキラ・シンエモン)



写真:メキラ・シンエモン


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